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読書メモ・西村章『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』(集英社新書、2023年)

だいたい話題に困ったときは天気の話か、スポーツの話をすれば当たり障りのない会話ができる。「大谷翔平はすごいですねえ」とか、「パリ五輪のメダルラッシュは…」とか。だがあいにく私はスポーツ観戦にまったく興味がなく、大谷選手にもオリンピックにも疎いので、ひどく座持ちが悪い。
もともとスポーツ観戦に興味がなかったのだが、それに拍車をかけたのが「スポーツウォッシング」という言葉を知ってからである。2021年の東京五輪の頃に出版されたジュールズ・ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理』(作品社、2021年)がきっかけだと思う。これもまた武田砂鉄さんのラジオからの受け売りである。
「スポーツウォッシング」とは、国の不都合な真実を世界的なスポーツ大会で「洗い流す」、つまり洗濯するという意味で、最も代表的かつ最初期の事例は、1936年のベルリンオリンピックである。世界から批判を浴びていたヒトラーとナチス政権は、オリンピックを開催することにより批判の矛先をかわすばかりか、政治への悪評を洗い流したのである。2021年の東京五輪もそんな傾向がなかっただろうか?
この本を読んで初めて知ったのだが、2021年の東京五輪の際には、女子サッカーの選手たちは試合前に片膝をピッチについて人種差別に対する抗議の意思を表明した。そこには日本の選手も含まれている。
肩膝をピッチにつけるという行為は、「2016年にNFLでコリン・キャパニックが黒人差別反対の意思表示として、国歌斉唱の際の起立を拒否して片膝をついた行為に端を発する。これが、やがてBLM(Black Lives Matter)運動として世界に広がってゆくムーブメントのひとつになった」(50頁)という。
これに対して2022年のサッカーワールドカップのカタール大会では、性的少数者に対する抑圧といった前時代的な差別が行われていることに、世界が抗議をしたのだが、このとき日本はというと、日本サッカー協会会長が「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」「あくまでサッカーに集中すること、差別や人権の問題は当然のごとく協会としていい方向に持っていきたいと思っているが、協会としては今はサッカーに集中するときだと思っている。ほかのチームもそうであってほしい」と述べた、と伝えられている。私はこのニュースを強烈に憶えていて、唖然とした記憶がある。これは、アスリート側がみずからスポーツウォッシングに加担したといえまいか。
この本の中で、ラグビー元日本代表で今は大学でスポーツ教育学を教えている平尾剛さんが、次のように述べている。

「アスリート側から声を上げないと、スポンサーや主催者側の利益になる形でどんどん利用され続けます。要するに、これは〈パンとサーカス〉なのです」(84頁)
「だから、何を差しおいても、まずはアスリートたち自身が見識を高め、社会に対してもう少し意見を持ち、押し戻してほしい。今は、これ以上になったら大変なことになるよ、という状況に来ていると思います」(同頁)

一流のアスリートは、その一挙手一投足が注目されるからこそ、高い見識で社会にメッセージを伝えなければならないのではないかと、平尾さんの発言は教えてくれる。
「スポーツに政治を持ち込むな」とアスリートを抑圧する反面、権力者側はスポーツを政治利用しているというこの矛盾。容易に洗い流せないようにするためには、やはりアスリート側の踏ん張りに期待するしかないのだろうか。

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