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忘れ得ぬ人々・第13回「ここはひまわり通り」

以前勤めていた職場の裏通りに、こぢんまりとした洋食屋さんがあった。おじさんシェフがひとりで切り盛りしていて、料理の腕はたしかだし、値段も手頃だった。同僚たちは誘い合ってランチに通っていたようだったが、私は少し時間をずらしてもっぱらひとりでランチを食べに行った。店名は、「ひまわり」の学名に由来した名前だった。この洋食屋さんの近くに「ひまわり」という定食屋さんもあって、私はこの裏通りを勝手に「ひまわり通り」と名づけていた。何度か通ううちに、すっかりとシェフに顔を覚えられた。

ある日、ランチを食べに入ると、客は誰もいなかった。
「いらっしゃい、お一人ですか」
「ええ」
ランチタイムなのに、客は私だけである。
一人でランチを食べていると、おじさんシェフが話しかけてきた。
食べながら、四方山話をする。しだいにそれが、シェフの「半生記」の話になる。
「お客さん、お時間ありますか?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、お話を聞いてくださいまし。いま、コーヒーを入れますので」

自分の生まれ故郷が嫌いで、故郷を飛び出して東京に出たシェフは、一流ホテルの厨房で修行をし、一流ホテルの料理人となるが、やがてそのホテルを辞め、故郷に戻り、いまのこぢんまりとした店を開いたのだという。いまから20年前のことである。
ホテル時代の話が面白かった。
1980年、芸能界のビッグカップルが結婚したとき、披露宴に3000人くらいの芸能界関係者が来て、その料理をつくるのが大変だった。
という話とか、
日本を代表する女優がホテルのイベントにやってきたとき、間近でその女優を見て、その透き通るような美しさに驚き、
「この人は、絶対にウンコをしない人だ、と確信しました」
という話。
おいおい、こっちはランチを食べているんだぞ!
なかでも面白かったのは、シェフが、とある地方の温泉街にある系列ホテルの料理長になったときの話である。
「いちど、○○組の方々がいらしたことがあったんですよ。黒塗りの車、30台くらい連ねてねえ」
「はあ」
「料理の注文の仕方がすごいんです。トップの方が、『今日は洋食が食べたい』というと、何をおいても、洋食担当の人間がかりだされます」
「ほう」
「ところが、肉料理をあらかじめ焼いてお出しすることができないんです」
「なぜです?」
「そのときの気分で、お一人お一人が肉のグラム数を指定してくるんです」
「どういうことです?」
「『俺、200グラム』、『俺、150グラム』って具合に」
「えええぇぇぇ??」
「ですから、お一人のお一人の希望のグラム数を聞いてから、肉を切り、焼かなければならなかったんです」
「そんなこと、普通はするのですか?」
「普通はそんなことしません」
やはり、勝手が違うらしい。まるで、浅田次郎の『プリズンホテル』の世界そのものである。
このシェフは、一流ホテルの料理人時代、さまざまな経験をしてきたということだけは、たしかだった。
それがいまは、地元に戻り、こぢんまりした洋食屋さんのシェフである。
「まったく、俺はここに店をかまえて20年経つのに、何をしていたんでしょうねえ」
…気がつくと、もう2時間が経っていた。

それからも、たまにひとりでランチを食べに行くと、そのシェフからはいろいろなお話を聞いた。鴨肉の焼き方のコツなどを教えてくれたときは、プロとしての矜持を垣間見たひとときだった。もともとだれにでも気さくに話しかける人柄なのだが、私にはとくにさまざまな愚痴を話してくれて、それを聞くのが楽しかった。
職場を離れることになったとき、この地で友人になった有志数人がこの店で送別会を開いてくれた。それ以降、出張で何度もこの地を訪れることがあったが、滞在中のスケジュールが忙しかったりして足を運んでいない。なんとか時間を見つけて再訪してみたい。


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