忘れ得ぬ人々・第15回「吾妻橋再会」

私が通っていた大学は、3年生になると、学部に進学して、それぞれの専門の勉強をはじめる。
3年生のときに、私と同じゼミに、1人のおじいさんが入ってきた。Mさんである。
Mさんは、長らく会社を経営されていたが、引退を機に、自分が若いころに勉強したかったことを勉強したいと思い、私のゼミの先生の門をたたいたのである。
つまりMさんは、私と机を並べて勉強した、同級生なのだ。
Mさんとたまにお酒の席で一緒になって、ことあるごとにお話を聞いた。それはそれはもう、壮絶な人生だった。
大学で勉強したい、という志もなかばに、学徒出陣で戦地に赴き、戦後はシベリアに抑留され、想像を絶する苦難を経験する。日本に戻ってからは、生きるために働き、商社に勤める。
そして、引退後、ようやく、自分の好きな勉強ができたのである。
Mさんの人生にくらべれば、私など、なんと生ぬるい人生だろう。
Mさんは、それから10年以上、ゼミに出続けた。私が東京を離れたあとは、こんどは後輩である私の妻が、Mさんの話し相手になった。あるときMさんからもらった手紙には、奥さんを亡くされ、いまは1人で暮らしている、と書いてあった。
2015年正月にMさん送られてきた年賀状によると、Mさんは、ご長男の家に転居されたという。「浅草から吾妻橋を渡ったところで、東京スカイツリーがすぐ近くです」とあった。
ご無沙汰をしているMさんに会いに行きたいと思いつつ、そのままになってしまっていたが、日程調整をして、妻と二人でMさんのお宅にうかがうことにした。
年賀状に書いてあるとおり、Mさんのお宅は、スカイツリーをすぐ近くに見ることができる高層マンションだった。
事前に息子さんから、「すっかり足腰が弱くなってしまい、ほとんど外に出歩けない」「耳が遠くなってしまったので、こちらの話すことが聞き取れないことが多い」とうかがっていたので、お会いしたとしても、どのていどお話しできるのか、少し心配だった。
しかしその心配は、杞憂に終わった。
午後2時にご自宅にうかがってから、午後5時45分までの3時間45分、Mさんは休むことなく、私たちにお話しになった。
「脳だけはまだ大丈夫だと医者に言われています」とMさん。Mさんのお話は、尽きることがなかった。
正直なところ、私がいちばん聞きたかったのは、旧制高校在学中に、学業の志半ばに学徒出陣で戦地に送られ、その後、シベリアに抑留され、苦役させられた頃のお話であった。
しかし、そのことは多くは語られなかった。
ただ、「今でも一人で寝ていると、あの頃のことを思い出し、自分が生き残ったことの意味を考える」とだけおっしゃった。
私たちに語ってくれたのは、もっぱら旧制高校時代の思い出である。
「あの頃がいちばんよかった。寮生活でね。朝から晩まで、みんなで議論ばかりしていた。自由な雰囲気だった」
と述懐された。
話を聞きながら思った。
人は年を重ねるごとに、楽しかった頃の思い出を、胸に抱いて生きるものなのだ。
Mさんは1冊の本を取り出した。
色あせた小冊子の表紙に、『愛唱寮歌集』というタイトルが書かれている。
「私が通っていた旧制高校の、寮歌集です」
「寮歌集?」
私は不勉強で知らなかったのだが、どの旧制高校にも寮歌というものがあった。もちろん校歌もあったのだが、校歌が歌われるのは入学式の時の1度だけである。もっぱら学生たちが集まると歌うのは、寮歌だった。
その寮歌は、一つではなかった。毎年、その高校の寮生やOBによって作られ、歌われた。だから一つの旧制高校に何十もの寮歌があったのである。
「息子はね、また寮歌の話か、って呆れますけど、私にとって寮歌は、高校時代を過ごした証なんです」
ひとしきり、寮歌についての思い出話をされたあと、Mさんが言った。
「その本、あなたに差し上げます」
「え?いいんですか?」
私は驚いた。「寮歌集」は、Mさんにとって青春の思い出ではないのか。
「私がかつてこういう寮歌を歌っていたということを、たまに思い出してください」
こうして、3時間45分にわたるMさんとのお話しが終わった。
ずっとMさんのかたわらにいた息子さんが、別れ際の玄関先で、私たちに言った。
「親父がこんなに長い時間話をするなんて、きっと嬉しかったんでしょう」
「またうかがいます」
「また来てください」
マンションの外に出ると、夕方の風がひんやりしていた。
その後再会が果たせぬまま、今に至ってしまった。

「もとめても もとめても
ときがたき こころかな
わがともよ ともにつどいて
ひとのよの いのちなげかん」
私は「寮歌集」に載っていた寮歌の一節を、思い出していた。

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