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読書メモ・早坂隆『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』(文藝春秋、2010年)

あるときから夏の高校野球(全国高等学校野球選手権)をまったく観なくなった。それは、高校野球大会が戦前からのメンタリティーを引きずっていることに気づいてしまったからである。
夏の高校野球の主催者は朝日新聞社だが、主催者もまた戦前から変わりない。大正4年(1915)に「全国中等学校優勝野球大会」が大阪朝日新聞社の主催で初めて行われた。「高校野球」といわれるようになったのは戦後の学制改革によるものである。また、甲子園球場が全国大会の舞台となったのは、大正14年(1925)のことである。以後、この高校野球大会のビジネスモデルが、戦後になっても解体されることなく、そのまま温存されている。そのことに気づいたとき、自分の中で薄ら寒さを感じてしまった。もちろん、頑張っている高校球児たちにまったく罪はない。問題はそのビジネスモデルを継続させている大人たちの方である。

高校野球に興味のない私がこの本を手に取ったのには理由がある。ずいぶん前だが、TBSラジオ「伊集院光 日曜日の秘密基地」というラジオ番組で、「ヒミツキッチの穴」というコーナーがあった。ラジオのリスナーの記憶の穴を埋める、という趣旨のコーナーで、あるとき、80歳を過ぎた依頼者から、こんな依頼があった。

「戦争中、私は台湾にいて、台北工業の野球部に所属していた。甲子園大会に出たいと思っていたが、当時、嘉義農林の野球部が強豪で、なかなか負かすことができなかった。ところが昭和17年(1942)に、嘉義農林を破り、晴れて甲子園大会のキップを手に入れた。そのとき、相手側の嘉義農林には洪太山(コウタイザン)というキャッチャーがいて、彼のバッティングが実に惚れ惚れするものだった。いまでもそのことが強く印象に残っており、もし叶うことなら、洪太山という選手にもう一度会ってみたい」

たしかこんな依頼内容だったと思う。
さあ番組は、この依頼に応えるべく奔走し、最後は実に感動的な大団円を迎えることになるのだが、まあそのことは置いといて。
私はそのラジオ番組を聴いて、このときに統治下にあった韓国や台湾からも代表校が出場していたということと、戦時下では朝日新聞主催の甲子園大会は開かれず、その代わりに文部省が主催の甲子園大会が昭和17年に1度だけ開かれたこと、したがって、昭和17年の大会は公式な大会としてはカウントされておらず、「幻の甲子園大会」と言われていること、などを初めて知ったのだった。
このエピソードがずっと記憶に残っていて、あるときその「幻の甲子園大会」についてのノンフィクションが刊行されていることを知り、俄然興味がわいてきたのである。
この本は、昭和17年の「幻の甲子園大会」を一回戦から決勝戦まで、当事者などへの取材をもとに完全再現している。しかし私の興味は、第四章「台北工業VS海草中学(一回戦)」に絞られる。
この章でまず私をとらえて放さなかったのは、予選で台北工業が強豪の嘉義農林に勝利し、台湾から甲子園に向かうまでを描いた詳細な叙述である。もちろん甲子園での一回戦の緊迫した試合展開も読み応えがあるし、その後の台湾球児たちの人生にも思いを馳せずにはいられない。しかしこれを美談としてはいけない。球児たちが戦争に翻弄された事実を忘れてはならない。当然だが、本書はその点をつねに意識している。

2015年には、『KANO 1931海の向こうの甲子園』という台湾映画が日本で公開されている。最初は弱小だった嘉義農林が、日本人の監督(永瀬正敏が演じている)のもとで力を合わせて、1931年、ついに台湾代表校として甲子園大会に出場し、決勝にまで進んだという史実をもとにした映画で、KANOとは、嘉義農林の略称である。「幻の甲子園大会」の前史ともいえる映画だが、この時点では戦争の足音は聞こえていない。


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