忘れ得ぬ人々・第11回「スンジ君」

私が39歳から40歳になった頃、2008年12月から2010年2月までの1年3カ月間、韓国の大学に留学した。といっても私は、韓国語がまったくわからないまま留学したので、渡航してからさっそく、韓国の大学の中にある語学院で毎日4時間の授業を受け、韓国語を一から勉強することになった。
最初は1級。韓国語がまったくわからない人向けのクラスである。3か月経ったら試験があり、それに合格すれば2級クラスに進学できる。私はまじめに勉強し、一度も落第することなく、半年後には3級、さらに3か月後には4級に進学することができた。
4級に進学するくらいになると、同じクラスの留学生とも韓国語でふつうに会話ができるようになる。その語学学校はほとんどが若い中国人留学生で、500人くらいがいたのに対し、日本人は片手で数えられるくらいの人数だった。
私は3級クラスまではクラスで唯一の日本人だったが、進学した4級のクラスには、2人の日本語母語話者がいた。カエさんという日本人と、スンジ君という在日僑胞の2人である。
カエさんについては、すでに書いたことがある。

回想6・鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』(新潮文庫、1997年、初出1994年)|三上喜孝 (note.com)

もう一人のスンジ君についても書かなければならない。
スンジ君は、日本の大学を卒業したあと、チェイルキョボ(在日僑胞)として、もう一つの故郷の言葉である韓国語を勉強しようと、この国にやってきた。4級の授業が終わると、日本に帰ることになっていた。
関西出身のようだったが、授業中は、ほとんど喋らなかった。失礼な言い方かもしれないが、細身の長身で、売れないミュージシャンによくいるような雰囲気の若者だった。
ほんとうに、彼が喋っているのを聞いたことがない。わずかに覚えているのは、次のようなことである。
あるとき、韓国語の先生がみんなに次のような質問をした。
「みなさんのなりたい職業は何ですか?」
多くの中国人留学生が、
「社長になりたいです」
と答えていて、
「社長は職業ではないのよ!あなたたち、社長ってどういう人だかわかっているの?」と先生があきれていた。
いまから思えば、韓国に留学する中国人留学生たちは、裕福な家庭に育ち、親が社長だったりしたのかもしれない。
次に先生は
「スンジ氏はどうですか?」
とたずねると、
「野球選手です」
と答えた。
「それは子どものころの夢でしょう!現実につくことができる職業を言いなさいよ!」
「でも、夢は夢ですから」
スンジ君はそう言って答えをはぐらかした。
しかしいま思うと、韓国語を身につけて日本に戻ったとしても、自分の希望する職業につけるかどうかわからないという不安があったのかもしれない。

4級クラスの最終日。
先生がひとりひとりにA4の紙1枚を配った。
「みなさーん、いまから順々に紙をまわしていって、チング(友だち)へのメッセージを書いてくださーい」
クラスの一人ひとりに、クラス全員が「寄せ書き」を書くという意味である。
順々に各人の紙をまわしながら、ひとりひとりにメッセージを書き、授業は終了した。
クラス全員が書いくれた私への寄せ書きを読み返す。
みんな、韓国語でメッセージを書いてくれた中で、スンジ君ひとりだけが、韓国語ではなく日本語でメッセージを書いていた。
「めっちゃ有名な学者さんになったら、何でもいいんで僕を使ってください!!」
これには思わず吹き出してしまった。
もちろん冗談で書いたのだと思うが、やはりスンジ君は将来の仕事に対して漠然とした不安があったのかもしれない、とあとになって思った。

あれから15年が経ち、私はスンジ君の期待に応えられないままとなっているが、スンジ君はいま何をしているのだろうと、時折思うことがある。

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