忘れえぬ人々・第5回

「ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない。そんな、あなたの「忘れ得ぬ人」を送ってもらっています」
という、TBSラジオ「東京ポッド許可局」のコーナー「忘れ得ぬ人々」にヒントを得て書いています。

2021年5月のこと。米国のある地方に住む紳士が、77年前の日本人の写真を持っていて、その写真を日本のご家族の方に返したいという依頼が、米国在住のジャーナリストのFさんを通じてあり、私が少しだけお手伝いしたことがある。米国紳士の回想によると、その写真のそもそもの持ち主は、マーシャル諸島で戦死した日本兵のものだという。とすると、写真に写った人たちは、その日本兵の家族の人たちなのか?調べてみたのだがなかなか手がかりがつかめない。
その写真に関する記事は、米国の新聞サイトや日本の全国紙にも掲載され、情報がないか呼びかけていたのだが、いまのところ、その写真の持ち主に関する有力な情報はないらしい。
しかし、これが思わぬ反響を呼んだようである。
写真についての情報提供を求めていた米国在住の日本人ジャーナリストのFさんのもとに、今度は別の米国人から、やはり77年ほど前に日本人が書いたと思われる手帳があるという情報が届いたのである。こちらもまた、もとの持ち主に返したいという依頼である。
そこには、几帳面にびっしりと、海軍兵学校時代に学んだと思われるさまざまな機械の取り扱い方などが横書きで書かれていたのだが、手帳の最後の数頁は、いきなり縦書きになり、そこには無味乾燥な機械の名前や数式などではなく、自分自身の心情を吐露したと思われる断片的な文章が書かれていた。Fさんは、なんとかしてこの手帳の持ち主の家族を見つけ出し、手帳を返したいと願い、私に解読を依頼してきた。2021年の夏のことである。
Fさんから手帳の画像を送っていただいたのだが、文字のくずし方が独特で、読みにくい文章である。言い回しにクセがあり、漢字の使い方もいい加減である。もっとも、これは誰に読んでもらうためのものではなく、自分が思うままに書いた文章なので、当然といえば当然である。
かなり思い悩むタイプの人のようで、自分が海軍の兵士として、そして一人の大人として、一人前になれるのだろうかという悩みをくり返し書いていた。書きぶりを見ると、どうやら海軍兵学校を出たばかりの若者らしい。手帳を分析すると、彼の経歴が時系列に沿ってぼんやりと復元できるまでに至った。
その手帳を持っていた米国人の方によると、この手帳の記主は、サイパンで戦死した日本兵だったという。米国兵が、「戦利品」として持ち帰ったのだろうか。いずれにしても、その手帳の記主である若者は、海軍兵学校で学び、自分ははたして兵士として通用するのかと思い悩みながら、その後サイパンで戦闘に参加し、若くして亡くなったのである。
乗りかかった船である。私はFさんからの情報提供を手がかりに、この手帳の主が誰なのかを調べることにした。いろいろな文献を集めたり、地方の図書館に出張したりして、調べたことを逐一Fさんにメールで報告した。Fさんもそれをふまえてさらにご自身で調べた結果を報告してくれた。それはさながら往復書簡で、その頻繁なやりとりは私にとって楽しいものであった。しかし結局は真相がわからず、お互い本職が忙しくなったこともあり、いつしかこの調査は途絶えてしまった。
ところで大事なことは、私はその頻繁なメールのやりとりをおこなった米国在住のジャーナリストのFさんとは、いまに至るまで面識がないことである。だがいまでも、真相を突き止めるための同志であったという気持ちは変わらない。いつかお会いする機会はあるだろうか。



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