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小林聡美『茶柱の立つところ』(文藝春秋、2024年)

いろいろな世代の人のエッセイを読むのが好きだ。でも一番落ち着くのは、自分と同じ世代の人が書いたエッセイである。同じような年齢のときに同じような時代を体験をしているからなのかもしれないが、もう一つ、自分と同じように年齢を重ねて、エッセイの書きぶりが年齢とともに研ぎ澄まされていく感じが心地よい。若い人(ここでいう「若い人」というのは、アラサーくらいを想定)の書くエッセイは、たしかに面白いし、センスもあるし、学びも多くて刺激的なのだが、ときおり胃にもたれることもある。
10代の頃からのファンである俳優の小林聡美さんは私よりも年齢が少しだけ上だが、いまの小林聡美さんのエッセイが、いまの私の人生のリズムにちょうどよい。長年のウォッチャーである身からすれば、最近のエッセイは実に言葉が研ぎ澄まされていると感じる。
標記の本は、日常の何気ない体験を書いていて、とくに大きな事件やハプニングが起こるわけではないが、読んでいくうちにすーっと身体の力みが抜けていく感じがする。
「お弁当」というエッセイに、こんな一節がある。

「おむすびは、究極の弁当の形だと思う。バリエーションも無限。そして、掌の大きさに結ばれたおむすびを頬張る時の、幸せ。確かな美味しさ。素手で結ぶおむすびには、自らのアミノ酸も旨味に貢献しているに違いない。
自分で結んだおむすびは自分の分身のようだ。そう、つまりお弁当という小宇宙は、作った人の分身でもあるのだ」

これを読んで思い出したのが、映画『かもめ食堂』(監督:荻上直子、2006年)である。小林聡美さん演ずる主人公が、北欧フィンランドのヘルシンキで日本食の食堂を切り盛りする物語。映画のなかで、小林聡美さんがメインメニューのおにぎりを握る場面がある。それがなんとも美味しそうで、映画を観た後におにぎりが食べたくなる。この映画を観た友人が「三上さんもそうですか。僕もこの映画を観たらおにぎりが食べたくなりました」と言ってきたので、決して私だけの感想ではないだろう。
『かもめ食堂』とその次の『めがね』(監督:荻上直子、2007年)は、いずれも「スローライフ」をテーマにした佳品で、この映画がその後の小林聡美さんの人生にもなにがしかの影響を与えたのではないかと愚考する。このエッセイ集も「スローライフ」の実践を思わせる内容だからである。「ウソから出たマコト」というが、映画がもし人生の実践に影響を与えているとすれば、これほど幸福なことはない。

「急がないことに決めた。
ある日、駅に向かう坂道を息を切らしながら速足で進む自分に、はたと「なぜにこんなに急ぐ必要が?」と疑問がわいた。誰と約束しているわけでなし、電車を逃したら次の電車に乗ればいいだけの話だ」
「別に長生きしたいわけではないけれど、私は心身の安全のためにゆっくり生きることに決めた。1日の予定は詰め込まない。やるべきことはしっかりと。駅への時間もたっぷりと」(「たっぷり生きる」)

「新しいコーヒー屋を見かけると、気になって覗いてみたりするが、若者で賑わっている店は、入るのに躊躇うことも多くなった。たいてい量が多いし、椅子に座ると足が床につかないし、まったりした若者の醸し出す圧も、キャッキャした若者の華やかさも、私の心をざわつかせる。コーヒーを楽しむというよりなんとなく気づかれしてしまう。やはり、多少格式張っていたり、ローカルチックであっても、喫茶店という体裁の店の方が私はおちつく。テーブルにお水とメニューが運ばれてくるような店。喫茶店の手持ち無沙汰な時間もいいものだ」(「スタンス!」)

この境地、若者にはわからねえだろ、ざまあみやがれ、と言いたくなるくらい、自分のいまのコンディションにしっくりとくる。理想とする生き方を先んじて実践している。長らくファンを続けていてほんとうによかった。自分の慧眼に、心から敬意を表する。


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