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いつか観た映画・『青春デンデケデケデケ』(大林宣彦監督、1992年)

大林宣彦監督の映画「青春デンデケデケデケ」(1992年)は、直木賞をとった芦原すなおさんの同名小説を映画化したものである。
1960年代、香川県観音寺市に住む高校生、ちっくん(林泰文)が、ある日突然、ロックに目覚め、友達と一緒にロックバンド「ロッキングホースメン」を結成する。青春映画の金字塔である!
若いころに見たときは、ちっくんをはじめとする高校生に感情移入して見たものだが、大学の教員稼業に就いてからはむしろ、高校の先生のほうに感情移入してこの映画を見るようになった。
なかでも、岸部一徳さんが演じる、英語の寺内先生は、教師としての私の理想の姿である。
1960年代の高校生にとって、ロックバンドは未知の存在だった。それは周囲の大人たちにとっても同様である。大人たちはなかなか、高校生のロックバンドに理解を示してくれなかったりする。 
そんな中で、彼らを後押しするのが、寺内先生である。寺内先生は、ちっくんたちが自らの意志でバンドを結成し、自分たちの頭で考えながら、楽器の調達や練習場所の確保に苦心している様子を、よく知っていたのである。 
ある日ちっくんは、職員室に来るようにと寺内先生に呼び出される。
「何か問題を起こしたのだろうか?」「ロッキングホースメンは解散させられるのか?」と、ちっくんはビビりながら、職員室に入る。
すると寺内先生は、自分の机の引き出しから、一冊の楽譜集を取り出す。
「お前、英語の歌好きなんなら、これやるわ」ロックの楽譜集である。
「ええんですか?もろても」
「やるっちゅうんじゃから、もろとかよかろ。進駐軍の仕事しおったときに、人からもろたもんじゃ。わしゃ、どうせ譜面読めんしの。それにもう、日本の歌がようなったんじゃ」
「先生がこういうの好きだとは思わなんだです」
「日本以外の国のもんが、何でもよう見えた時期が、わしにもあったんじゃ」
「今は?」
「だから今は、『ユー・アー・マイ・サンシャイン』より『長崎の女(ひと)』の方がええ」
よく知られているように、岸部一徳さんは若いころ、グループサウンズ(GS)全盛期にタイガースのリーダーをつとめていた。このセリフを岸部一徳さんが言うと、寺内先生の言葉なのか、岸部一徳さん自身の言葉なのか、虚実皮膜の間をさまよっているような感覚になる。
それはともかく。
ロックバンド「ロッキングホースメン」の活動は軌道に乗り始めるが、相変わらず練習場所の確保が難しい。やはりロックバンドに対して、周りの人がなかなか理解してくれないのだ。
ある日、ブラバンの部室の前で、ちっくんは寺内先生に言う。
「ブラバンは、学校で練習できるからええですね」
「ああ、おまえら、練習場所に困っとるゆうとったな」
「はい。合同練習が思うようにでけんで、困っとります」
「『部』にすりゃええがな」
「…登録とか、顧問の先生とかは…」
「わしが顧問になってやる」
「ほんまですか?」
「名前は、…第2軽音楽部でええやろ。ま、軽音楽部はほとんど活動しておらんみたいじゃから、すぐ第1になるわ。学校にはわしが許可をとっといてやる。部屋は…コーラス部のところを半分使(つこ)たらええ。悪いけど、そこで練習すりゃあええ」
あまりのトントン拍子に、浮かない顔をするちっくん。
「なんぞ?」
「なんか、…ひいきされとるみたいで…」
「やる気のある生徒はドシドシひいきするんじゃ、わしは。…部室、見に行こか」
そう言って階段を駆け上がっていく寺内先生。
まじめにロックをやりたい、というちっくんたちの心を理解し、彼らが活動しやすいようにと、即座に対応する寺内先生の姿は、大学教員だった頃の私にとっての指針だった。 
大学教員時代の夢の一つが、「音楽サークルの顧問になりたい」だった。大学教員生活最後の2年間、ふとしたことがきっかけで、音楽サークルの顧問になった。
その音楽サークルは、主にロックバンドの活動サークルで、私自身、ロックを聴く人間ではないのだが、「青春デンデケデケデケ」の寺内先生のような顧問に憧れていたので、私には願ったり叶ったりの顧問就任だったのである。
そういえば私の高校時代にも、ロックバンドの部があり、クラスの友人の何人かが、バンド活動をしていた。しかしどういうわけか、部の名称が「民族音楽愛好会」というものだった。実際にはロックバンドばかりが集まっているのに、「民族音楽愛好会」とは、不思議な名称だなと思っていたが、いま思うに、「ロック愛好会」では、不謹慎だと考えられていたのだろうか。「ロック」はダメだが、「民族音楽」ならばよい、という妙な理屈で、その名前がついたのかも知れない。
顧問は、私のクラスの担任の恩師だった。恩師も、ロックとは無縁の人だったが、おそらく、高校ではあまりオモテだってはよいとされないロックバンドに、理解を示していたのだろう。私も恩師のそんな考え方に、影響を受けたのかも知れない。
当時はそれくらい、高校でロックバンドを組むということが、高校生にとっては後ろめたく、不謹慎なものと考えられていたようである。いまではとても考えられないことだろう。
私が顧問になった2年間、100人もの大所帯である音楽サークルはときに統率のとれなくなることがあり、サークルの部長と一緒に悩みながら解決方法を模索し、実行に移したこともあった。
念願叶って自分が学生たちとバンドを組んで、学園祭で最初で最後のライブ演奏したときは、映画『青春デンデケデケデケ』のラストシーンを追体験しているようで胸が熱くなった。
そのとき私は40代前半だったが、自分の大学時代には味わえなかった「青春」を噛みしめた。

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