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連想読書・関口良雄『昔日の客』(夏葉社、2010年、初出1978年)

島田潤一郎さんの『あしたから出版社』(ちくま文庫)を読んで以来、関口良雄『昔日の客』をぜひ読んでみたいと思っていた。著者の関口良雄(1918~1977)は、東京の大田区大森に山王書房という古書店を営む店主である。古書店に訪れる文学者たちとの交流を描いた随筆を復刊したものである。
味読、という言葉がこれほどしっくりくる本はない。内容ももちろんだが、発行元の島田潤一郎さんが徹底的にこだわった装丁は、布製、箔押し、そして裏表紙には小さな版画が貼ってあるという丁寧なもので、何より手触りがよい。…というのは、この本の感想としては陳腐なものだろう。
本のタイトルは、この古本屋を訪れた芥川賞作家の野呂邦暢(1937~1980)さんが、関口さんに送った自著『海辺の広い庭』の見返しに
「昔日の客より感謝をもって」
という言葉を書いた、その言葉からとっている。野呂邦暢さんは古本屋好きとして有名で、ちくま文庫から『野呂邦暢 古本屋写真集』(2021年)が出ているほどである。野呂邦暢さん自身が東京各地の古本屋を訪れた際に、そのお店のたたずまいや書棚をひたすら撮影しただけの写真集で、古本屋に対する愛着が尋常ではなかったことがうかがえる。古本屋の店主を主人公にした連作小説『愛についてのデッサン』(ちくま文庫、2021年)は私の大好きな作品である。そして関口さんのこの本に書かれている野呂邦暢さんのエピソードも、実に味わい深い。
正宗白鳥、尾崎一雄、尾崎士郎、上林暁、川端康成、野呂邦暢、三島由紀夫など、文学者との交流を、決して誇ることなく書いている。最初の「正宗白鳥先生訪問記」は、タイトル通り、作家の正宗白鳥の自宅を訪問した時のことを描写しているが、正宗白鳥の偏屈な人間性を愛すべき筆致で書いていて、読んでいて微笑ましくなる。
そういえば、と思いだしたのだが、ずいぶんむかしに深沢七郎『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)を読んだら、その冒頭がやはり正宗白鳥とのエピソードだった。関口良雄さんの『昔日の客』は全体に淡々と書いているのに対し、深沢七郎のこの本は全体に抱腹絶倒の随筆で、深沢七郎と正宗白鳥とのやりとりがかなりおもしろく書かれていた記憶がある。文壇の「常識」を知らない深沢七郎が、正宗白鳥に数々の質問を投げかけて、言わなきゃよかったと後悔するさまは、正宗白鳥の人間性の面白さを逆に引き出していたように思う。私自身、実は正宗白鳥の小説を読んだことがないのだが、正宗白鳥がそうとう偏屈な作家だったということだけは、この2冊から学んだ。こんど小説も読んでみよう。

私がとくに印象に残ったのは、有楽町のスワンという喫茶店の店員との交流を書き綴った「スワンの娘」というエピソードである。ある日、自宅で映画「ローマの休日」のテレビ放映を見ているうちに、20年ほど前の記憶がよみがえる。
古本屋を始めた頃、ふとしたことから「スワンの娘」と知り合い、ある日、「ローマの休日」を観に行こうと誘う。ところがその当日、映画館の前で待ち合わせていると、スワンの娘が息せき切ってやってきて、郷里の鳥取が大火に遭い、自分の家も焼けてしまったのでこれから帰らないといけないと、郷里からの電報と急行券の切符を見せた。もう映画どころではなく、著者は東京駅まで見送り、別れたという。それ以来「スワンの娘」には会うことなく、名前も忘れてしまい、遠い記憶のかなたに消えてしまった。しかし鳥取を旅した時、スワンの娘は今ごろどうしているのだろうかと、ふと思い出した。
「他愛もないこんな回想からさめた時、TVの『ローマの休日』は、そろそろ終幕に近づいていた」
と、この随筆は結んでいる。何度でも読み返したくなる、味わい深い文章である。
 そしてこれは、「ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない、忘れ得ぬ人」についての極上のエピソードである。



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