いつか観た映画・大林宣彦『廃市』(1983年)
もう少しだけ、「廃市」について書く。
6年ほど前の2018年に行われた、ある本の出版記念の会に、ある若き映画監督が来ていた。私よりもおそらくひとまわり以上は下の年齢の方である。
見た目がちょっと気難しそうというか、独特の雰囲気を持っている方だったので、ちょっとお話ししづらいかなあと思って、1次会と2次会の時にはまったくお話しすることができなかった。
2次会が終わったあと、3次会に向かう道すがら、少しお話しをした。
「大林さんのファンなんですってね」とその監督が言った。1次会の時の私の挨拶を聞いていたのだろう。
その若き監督にとって、大林監督の映画はどう映っているのだろう。大林監督の映画は、賛否が分かれるので、こちらからはなかなか話題に出しづらかった。
「ええ」
「どの映画が好きなんですか?」
少し考えて、
「『廃市』です」
と答えた。
「ハイシ?ハウスではなくて、ハイシですか?」
「ハイシです」
どうも、彼は「廃市」という作品を知らないらしい。私よりもひとまわりくらい若いので、無理もないだろう。
「ハウス」は、大林監督の商業映画デビュー作なので有名なのだが、「廃市」は、大林映画のファン以外にはほとんど知られていない。
「16ミリで撮影した、個人映画のようなものです」
と答えると、
「そうですか。そういう映画を好きな映画としてあげてくれるっていうのは、映画監督としてはうれしいものですよ。商業映画よりも、作家性がいちばんよくあらわれている個人映画を評価してくれるっていうのは、ありがたいことです」
と彼は言った。
「そういうものですか」
「ええ、そういうものです。…で、『廃市』のどういうところが好きなんですか?」
さらに突っ込んだ質問である。
どういうところがと言われても…と答えに窮したのだが、少し考えて、
「うーん。あの映画を観たときに、『これは僕のために作られた映画だ』と、感じちゃったんですよね」
と答えた。
むかし大林監督が、思春期に福永武彦の小説『草の花』を読んで「これは僕のために書かれた小説だ」と思った、と話していたことがあったのだが、僕にとっての「廃市」が、まさにそういう存在だったのである。
「そうですか。それはすごいなあ。そういうふうに見てくれるファンがいるっていうのは、監督にとっては幸せですよね」
「そういうものですか」
「そういうものです」
私はてっきり、大林監督のファンであると公言したことに対して、同業者の監督として揶揄するつもりでこういう質問をしてきたのだろうかと、かなり歪んだ見方をしてしまっていた。だが、そうではなかった。彼はなぜ僕が大林監督のファンとなったのかを、自分も映画監督という立場にある者として、知りたかったのではないだろうか。
ちょうど私が、読者のことを気にするように、である。
考えてみれば、私の書いた文章や本なんてものを、ちゃんと読んでくれる人なんて、ほとんどいない。ときに絶望することすらある。
彼もまた、同じような経験を何度もしているのかもしれない。
だが、世の中には、きっといるはずである。
「これは自分のために作られた作品だ」と思ってくれるファンが。