忘れ得ぬ人々・第7回「鍋を囲んだ夜」

「ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない。そんな、あなたの「忘れ得ぬ人」を送ってもらっています」
という、TBSラジオ「東京ポッド許可局」のコーナー「忘れ得ぬ人々」にヒントを得て書いています。

前の職場(大学)に勤めているときの話。
同僚との宴会で隣にいた、私より10歳ほど年上の同僚が言った。
「若いってのはいいですねえ。学生との距離も近いし。僕なんか、年々学生との距離が離れていくばっかりで…」
このときの宴会の主役である、30代半ばの同僚に向けての言葉である。私もそのときは40代前半で、そのことを痛感していたので、大きくうなづいた。
「君の年齢でそうかね?」と、その向かいに座っていた、私より15歳ほど年上の、ベテランの同僚が口をはさむ。「ボクなんてのはねえ、今でも学生との距離は近いよ」
そうやって自信をもって言える同僚を、うらやましく思った。私はとてもそんなことを言えるような人間ではない。
そんな会話を聞きながら、この大学に着任してほどない頃の教え子であるH君のことを思い出した。その当時は私もまだ30代半ば頃であった。

H君は、バスケ部に所属していた体育会系の男子学生である。硬派で、最初は世の中を斜に構えて見ているような感じの学生だろうか、と、なんとなく近寄りがたい感じがしたのだが、実際に話してみると、人間に対する共感に溢れ、内側に熱い思いを秘めた学生なんだな、というのが、次第にわかってきた。高校の教師になることが、何よりの夢だった。

あれはいつだったか。たぶん、卒業を控えた冬のことだったかと思う。
学生たちが集まって、学生研究室と称する部屋で鍋をしようということになり、なぜか私もその席に呼ばれた。
お鍋をつつきながらお酒を飲んだりしていると、H君が私に言った。
「先生、ちょっと廊下に出て話しませんか」
お酒のグラスを持って、寒くて暗い廊下に出た。
「先生」
「どうした?」
「先生は大学時代、どんな恋愛をしたんですか?」
だしぬけに聞かれたので、ビックリした。
何と答えていいのか、考えあぐねていると、H君が続けた。
「じゃあ、先生は、奥さんとどうやって知り合ったんですか?どういうきっかけで、結婚しようと思ったんですか?」
こういう質問をする場合、たいていは、というか、ほぼ間違いなく、質問する側が現在「そういう悩み」を抱えている、ということである。
「なんだなんだ、最近、何かあったのか?」
そこから先の会話は、覚えていない。そのとき、そうとう酔っていたので、お互い饒舌に何か喋った、という記憶だけはある。
鍋をやっている部屋からは明かりが漏れている。中では、学生たちがかなり盛り上がっている。
そのうち、トイレに行くために部屋から出て来た女子学生が、廊下で話し込んでいる私たちを見つけた。
「あらあら、2人で何話してるの?…H君!先生になに相談してるのよ~」
「っるせえよ!…先生、そろそろ戻りましょう」
「そうだな」
何ごともなかったかのように部屋に戻り、ふたたびみんなでワイワイと盛り上がった。

卒業後、H君は地元に戻り高校の教師になった。誰よりも共感力の強い学生だったから、生徒に愛されている先生として頑張っていることは容易に想像できた。
それからほどなくして、職場で知り合った女性と結婚したと、風の便りで知った。

職場が移ってから、1度だけH君が連絡してきた。6年ほど前(2018年秋)のことである。「研修のために1週間東京に滞在します。先生とお話ししたいので時間を作って下さい」
突然呼び出され、東京駅近くの居酒屋で話をした。
仕事のことについてズケズケといろいろな質問を投げかけてくる。あの「鍋を囲んだ夜」にした恋愛相談のように。
こっちも必死で答えるが、それが役に立つ答えになったかどうかはわからない。きっと役に立たなかったと思うが、それでもH君は私の答えを確かめに、会いに来たのである。
私の答えがどうであろうと、H君の胸のつかえがストンと落ちたのであれば、それはH君自身が答えを見つけたということである。

それ以降、彼からは連絡がないが、きっとまた、自分が壁にぶつかったとき、私に会いに来るのだろう。
そしてそのときもまた、私は答えに窮するだろう。でも彼は、自分で答えを見つけるだろう。

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