雑感・『文藝別冊 総特集 山田太一 テレビから聴こえたアフォリズム』(河出書房新社、2013年)

脚本家の向田邦子に仕事などでかかわった男性は、なぜ、向田邦子に対する気持ちを赤裸々に述べるのだろう、というのが、私のむかしからの疑問である。
演出家の久世光彦が書いた『向田邦子との二十年』(ちくま文庫)が、その典型である。この本は、全編が向田邦子に対する「思い」にあふれている。ひとりの人間に対して、これほどの思いを込めて書いた本を、私は知らない。
ひとえに、多くの同業者が向田邦子の才能に惚れたからだ、と言ってしまえばそれまでなのだろうが、それだけで説明がつくことなのかどうか、よくわからない。
2023年11月29日に亡くなった山田太一さんも、向田邦子について短いエッセイを書いていることを最近知った。標記の本に収められている「向田さんのこと」というエッセイで、もとはエッセイ集『いつもの雑踏 いつもの場所で』(新潮文庫、初出1885年)に収められていたものである。その中で、向田邦子のエッセイを読んだときの衝撃を語っている。

「『眠る盃』という短い文章は、昭和五十三年十月の東京新聞にのった。一読三歎してすぐ私は向田さんに電話した。その頃私は向田さんのエッセイを『発見』した気になっていた。『銀座百点』に連載していたエッセイが実に素晴らしく、どうして人々の話題にならないのだろうかと口惜しいような思いでいた。
(中略)
向田さんのエッセ一はすごい、と思った。電話で『御自分では気がついていらっしゃらないかもしれないけれど』などと思い出しても汗が出るような僭越な口をきいて、せい一杯の讃辞を連らねた。『おかげさまでね』と向田さんはおっしゃった。『他にもちょっとほめて下さる方がいて、あんなの仕様がないと思うんだけど、『銀座百点』の連載、本になりますのよ。
それは何よりです、と私は喜んだ。やっぱりいるんですねえ、分かっている人は、などといったまもなく連載エッセイは『父の詫び状』という本になって出た。贈っていただいて、すぐまた私は長文の手紙を書いた」

これほどまでに自分の気持ちを本人に率直に伝えることってあるだろうか?そしてそのときの様子を読者に対して赤裸々に吐露しているのである。
私はそれに引き続く文章に、山田太一さんのさらに赤裸々な思いを感じた。

「それから一月もたたないうちに、その本は、嵐のような讃辞に包まれていた。讃めない人はいないというような人気であった。勝手なもので私は、取り残されたような気分になった。もう私が電話をするまでもない。一人場末の酒場で昔の友人の成功をはるかに思っているというような按配になった」

この一連の気持ちは、私にもなんとなく心当たりがある。自分一人が讃辞を送ったつもりが、実はその人は多くの人から讃辞を得ていて、私自身が「取り残されたような気分」になるということを、経験したことがあるような気がする。ただ山田太一さんと私が決定的に異なるのは、私が讃辞を送ったところで何の力にもならないが、山田太一さんに讃辞を送られたら、どんなに世間的にほめられていたとしても、それに勝る嬉しさはないのではないか、ということである。私が向田邦子だったら、きっとそう思う、と思う。

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