電車の中で


 新聞の投書欄に、電車で席を譲る話がよく載っているのだが、どうしてあんなに頻繁に載るのだろうといつも不思議に思っている。ほかに話題がないのだろうか。そしてどうしてあんなにみんな悩んでいるのだろうと不思議に思う。私は最近、悩んだことはない。
 大学生の頃はなかなかうまくできなかった。席を譲って断られたらどうしようとか、お礼を言われるのが恥ずかしいとか思って、とても難しく考えていた。そこで編み出した方法は、さもこの駅で降りますよ、というようなふうで席を立つという方法だ。でも、そうやって私が席を立ち、ほかの人が座って、私がドアのそばに立ったまま次の駅で降りないと、その人が「あれっ?」という顔をしたので、あ、気を遣わせているのかな、と思ったことがあった。なのでその後は、次の駅で降りて別の車両に移る方法を取ることにした。でもそうしていた時に、ホームが混んでいて隣の車両に乗りそびれ、一本次の電車を待たないといけないことがあったので、さすがにそれはやりすぎなような気がした。しかも、その方法を取るには、最初から車両の端のほうに乗っている必要がある。
 あの頃は初々しかったなと思う。
 今は、紆余曲折を経て、席を譲る時になんらハードルを感じなくなった。自分が大変な時に席を譲ってもらって助かったこともけっこう過去にあったので、できるだけ譲りたいと思うようにもなった。でも中年になってからはそれなりに疲れるので、疲れている時はそのまま座っている厚かましさも兼ね備えるようになった。
 席を譲る時はたいてい、まず、「よろしかったらおかけになりますか?」と聞く。立ち上がって譲ったものの相手が断ったらまた座るという方法でも別に恥ずかしく思わなくなってはいるのだが、立ち上がってからまた座るのが面倒臭いし、相手も断りにくくなると思うので。
 で、その時の相手の返事の仕方によって、遠慮なのかどうかを判断する。先日は、八十代とおぼしきいかにも立っているのがつらそうな男性が私の前に立ったので、「おかけになりますか」と聞くと、「いえいえ」とおっしゃり、「いえ、どうぞ」と私が言うと、「すぐに降りますんで」とおっしゃる。私が「私もすぐに降りますので」と言うと、気づかなかったがその人の隣に妻らしきかたが立っていらして、「あなた、座らせてもらいなさいよ」とおっしゃったので、私が立ち上がって「どうぞどうぞ」と言うと、男性が「そうですか?」とにこにこと笑っておかけになった。すると、私が立ち上がる瞬間に、私の左隣の若い男性も同時に立ち上がって、その女性に「どうぞ」と席を譲ったので、お二人でお座りになったのだが、隣の男の人に気を遣わせてしまったなあ、と後で思った。そういうとき私はちょっと気に病んでしまう。でも、彼の意思だろうから、まあいいか、と最近は思うようにしている。譲りたかったけど言い出せなかっただけかもしれないし。
 他人の意志は、まあ、なんというか、ほとんどわからない。態度だけでもわからないし、言葉も本心だと信じていいかわからないし、電車で居合わせた人たちはそもそも究極の初対面だし、短い付き合いだし。
 通勤で地下鉄を使っている時、自分もだんだん残業続きになると毎日相当疲れてきて、座りたいなと思う時も多かった。吊革につかまって立っていて、隣に立っている人と私のちょうど真ん中あたりの席が空いた時、相手の人がこちらを見て、「私のほうが年上やな」とおっしゃって座ったこともあり、あ、年齢で決めるのか、若く見える人は損やな、と思ったことがある。

 ある時、私は、五十代とおぼしき男性の横に立っていた。その人と私のちょうど間くらいにある席が空き、その人がちょっと私を見たので、私が「どうぞ」と言うと、「いえ、どうぞ」とおっしゃる。いえいえ、と譲り合ったが、私が座らせてもらった。その日もちょっと疲れていた。それで、よっとこさ、と座ったところ、その人は、私の左側に座っている三十代くらいの男性と、さらにその左側に座っている五十代くらいの男性と、話をし始めた。それで私は慌てて立ち上がって、「おともだち同士、一緒に座れたほうがいいですよね。どうぞ」と言ったら、その人は、「いえいえどうぞ」とまたおっしゃるので、私は、「そうですか?」と言って、また座った。
 しばらくその三人は話をしていたのだが、気づくと、立っていたかたは隣の車両のほうに歩いていかれた。
 すると、座っている五十代の男性が、「ああ、谷口さん、恥ずかしかったんやな」と言い、三十代の男性が、「まあ、あれはね……」と言って二人で谷口さんの背中を見送っているので、私は、はっとして、「あ、私が『おともだち』とか言ったからですか?」と言うと、「まあ……」という返事が返ってきた。「悪いことしましたね」と言い私も谷口さんの背中を見送っていると、五十代の男性が、「うん、でも、あの人な、天王寺で降りるから、あっちの車両に行っといたほうが階段が近いねん」とおっしゃった。やっぱりものすごく仲いいんだな、と思った。会社の人同士なのだろうか。あんなに和やかな感じだと社内も雰囲気いいだろうなと思った。まあ、同じ会社の人同士かどうか分からないけれど。

 別の日には、八十歳くらいの上品な女性が私の隣に座り、同じ年齢くらいの向こう側を向いて吊革を持っている男性に「あなた、それ持ってましょうか」と話しかけたので、私が腰を浮かせて「一緒に座れたほうがいいですよね」とその女性に言ったら、私の腕を軽く押さえて制し、「いえ、いいの。家でずっと一緒にいるんだから、もういいのよ。隣にはあなたが座っていて」とおっしゃって、その上品な佇まいも素敵だったし、そんなに長くずっと一緒にいる人がいていいなあとも思った。金婚式を迎える人生もこの世にはあるんだなあと。

 松葉杖をついた人も二度ほど見かけた。一度は三十代くらいの人で、ドアのそばに立っていた。私も立っていて、席が空いてあの人が座れたらいいのになと最初は思って見ていたけれど、降りる時のことを考えたらその人はドアのそばにいるほうが便利なのかなとも思った。
 そう思ったのに、別の日に、私は仕事のための講座の課題か何かを電車の席に座って必死にやっていて、ふと顔を上げた時に、五十代くらいの男性が松葉杖をついてドアのそばに立っているのが目に入り、とっさに手元のカバンや紙をまとめてばさばさっとつかみ、それらを落とさないようにするには真っすぐ立てなかったので中腰でその人に慌てて近づき、「松葉杖をついていらっしゃるのに、失礼いたしました。あちらの席にどうぞ」と言ったら、その人は気圧されて、私がさっきまで座っていた席に座ってくれたが、迷惑だったかもしれない。私は思い込みが激しいうえ、とっさに身体が動いてしまう時があるのだ。今度からは落ち着いて行動しようと思う。

 また、あるとき、私は電車内でむせた。仕事が忙しく、疲れていた。緊張したり疲れていたりすると、むせる。気の張る仕事が午前中から入っていて、寝不足のまま会社に向かう車両内で盛大にむせた。むせないようにしようとすると、緊張して余計にむせる。風邪ではないから移す恐れはないと言いたいが、むせているからしゃべれない。そもそも、風邪ではないことをアピールするほうが不自然かもしれない。風邪ではなかったとしても、何かが飛んできそうで嫌かもしれないし、音も不快だろうし、見ていて落ち着かないだろうし、周りの人からすると迷惑なのだろうけれど、私は必死に空咳を止めようとするも上手くいかず困っていた。
 そのとき、周囲から、飴が差し出された。とっさに私は受け取るのをためらった。じつは私は、飴を食べると余計にむせるのだ。しかし、むせているのでそれを伝えることもできない。
 そうこうしているうちに、ほかの人も飴を取り出して、私にくれた。さらにもう一人。さらにもう一つ。また一つ。
 周りの人たちが輪になって立ち、私が飴を舐め始めるのを、今か今かと待っている。私の咳が止まってほしいのは、私のためというよりも、その人たちのため、皆のためというようでもあった。でも、親切が顔に滲み出ているともいえる。
 そんなに大勢の人たちが飴を持ち歩いているとは知らなかった。そして、飴を舐めれば咳が止まると信じている人がこんなにいるということに驚きながら、私は、そのうちの一つの飴の個包装の袋をギザギザのところから開け、口に入れた。
 苦いような甘いような味がした。

 人の行動にはどんな気持ちが乗り、そしてそれらはどこへ行くのかと思う。

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