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これまでの私

幼少期から小学生の頃


1987年、大阪生まれ、女性。
教員の父、医療従事者の母の元に次女として生まれる。
ひらパーの近くを父がこぐ自転車に乗って通り過ぎるのがお決まりのお散歩コース。
その頃の記憶はほとんど無いけどその時住んでた団地の間取りは今でも覚えてる。
4歳まで大阪に住み、その後京都へ。

祖父母の家の近くに引っ越し、毎日祖母が家に来てくれるのが嬉しかった。
私はおばちゃんっ子。一緒にタケノコ堀りに行ったり、ザリガニ捕獲しに行ったり、割と野生児な私によくつきあってくれてたおばあちゃん。京都での日々は毎日が本当に楽しかった、同年代の友達も沢山いて走り回って遊んでそんな日々がずっと続くような気がしてたけど、父の仕事の都合で突然、兵庫県に引っ越す事に。

94年の3月に引っ越し、翌年95年1月17日に阪神・淡路大震災で生まれて初めて震度6強の揺れを体感する。突然の揺れで目覚める。恐怖で固まるしかなかった。冬、空はまだ暗かった。停電、断水、寒い。
大きなタンスの前に川の字に布団をひいて寝てたので、あの重すぎるタンスがもし倒れていたら、私は今、ここにいない。幸い家も家族も無事だった。

ちょうどこの頃だったと思う、勉強出来るようにならないと!と変な使命感が芽生え始めたのは。
そして、そこから小学校高学年になるにつれてどんどんガリ勉になっていった私。
周りの雰囲気に影響を受け中学受験専門の塾に行く事になった。
塾は楽しかった、特に算数。解き方閃いた時の喜びが半端なかったから。
ただ、余裕綽々ってことは決してなく、クラスが落ちる恐怖と格闘し、志望校を少しでも上に設定したい欲、高望みがやめられなかった。偏差値、偏差値、偏差値、とにかく、偏差値ーとなってた小6の夏。

はじめての挫折

そして挫折。私の中学受験は失敗に終わった。
燃え尽きた&ショックでボロボロになったメンタル。
なんだかんだ紆余曲折を経て、女子校に通うことになった。
ただ、これが絶望的に合わなかった。
げっ!!女子だけの空間苦手だ〜!!となった、自分も女子なのに。女子特有の行動様式(例:群れたがる。「一緒に〜」が大好き。)と常に連帯していないといけない不自由さ。人間関係のうねりに飲み込まれた三年間。
うーーーん。悩んだ、悩んだけど。
親に懇願して、高校は共学へ。中学受験したのに、高校受験もするというコスパの悪さ。
高校時代は勉強はそこそこにして、フルートの習い事に打ち込む。勉強に関しては中学受験での反省もあり、高望みしない、身の丈に合ってる状態を探す、にシフトチェンジするようになり、それが自分の心を守るためには必要なんだってこの時は自分に言い聞かせていたのかも。
勉強以外に集中出来る事が欲しい、それでフルートを習い始めた。

大学は芸術学科に進む

舞台美術、戯曲、舞踊、音響、照明について学ぶ。
チェーホフやサミュエル・ベケットの古典演劇で舞台を作ったり、コンテンポラリーダンスの公演を打ちながら単位をもらう少し特殊な学科だ。
入学してすぐに教授が新入生全員に言ったのはこの学科で四年間学んでも飯は食えないからそれだけは頭に入れておけと言われた。
それぞれの役割を与えられて一つのものが出来上がっていく面白さ、みんなで作る経験が出来たということでは、社会に出る前の経験として一定の意味はあったのかなと思っている。
大学生活は憧れの一人暮らし。とにかく、自由!何にも縛られない生活。夜中に突然集まって、とりあえずドライブ!と車に乗り込み、知らない砂浜に辿り着いた事もあった。

3回生の冬?ごろからだったか就活が始まった。売り手市場だった。就活するうちに東京で就職したいと思い初めて、東京に何度か足を運んだこともあった。秋葉原のカプセルホテルに泊まった翌日にあの事件が起きた時はヒヤッとしたのを覚えている。
そして、東京まで面接に行った会社に内定を貰ったのだが、私は結局東京には行かなかった。両親に関西で探して欲しいと頼まれたのだ。反対を押し切って行くことも出来たかもしれないが、その時の私にはそれが出来なかった。
売り手市場のため、内定を手放しても危機感は薄かった。そして、余裕ぶっこいていた時に、訪れたのがリーマンショックだった。いっきに風向きが変わり、寒々としたものになっていった。
焦りを感じ始めるが。

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