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河井寛次郎と西瓜

よく行く果物やさんに買い物に行ったんですが、「この時期はあまり種類ないんですよ」って言う店主さんの前に生姜とか前シーズンからの文旦、それと並んで大玉の西瓜がありました。
初物だなぁと思って見るとちょっとお高い。でも美味しそうで、その時しかその価格で買えないかもって思ったこともあったんですが、自分の恩師の話も思い出しました。

ある日恩師(先生)が知り合いの家に行った暑い夏の日に、陶芸家の河井寛次郎の大皿でざっくり切った西瓜を出されたんですって。

河井寛次郎は京都の五条坂に窯と自宅があって、地域的に身近で、名も知れた偉大な作家さんです。
先生はその時、こなれた仲なんだからそんなに高いお皿で雄々しくしないでも、っていう意味で勿体ないと答えたようです。割れたらどうするねんとも言ったみたいです。
家主さんは逆に、むしろ使うたらええねん、と、器は使うてなんぼ、と返されて。

家も器も確かに使わなければ(作られた時の使命を果たさなかったら)作られた意味がなくなっちゃう。
河井寛次郎も用の美のものを制作中期には作っていたというし。

西瓜をのせる事で家主さんは器にその役目を作った事になるんですが、その大皿は時価がつくような器です。

家主さんはやはり京の人、そういった感覚は仕事上でも生活でも造嗜深く刻み込まれていて、先生は家主さんやその奥さま(西瓜を切ったのは奥さま)の豪快な寛容なところに感嘆されたんでしょう。

で、わたしがその話を後日譚として先生から聞いたのは、グレープフルーツ1つ買うのも迷ってしまうような厳しい経済環境の最中でした。
切り詰めた生活するときって、元々持ってた文化的な感覚を忘れやすくなっちゃうんですよね。切り詰めることに終始して、全部を自分で制約かけて、心も荒みがちになります。文化的なものを生産する仕事に就いていたにもかかわらずです。

そんな時だから、西瓜の話で、あまりお金をかけなくても地域に溶け込めば、人を通して文化とか昔から自分が元々持ってる感覚、残すべきいいところがちゃんと思い出されたり伝わってきたりするんだと気づくんです。仕送りしてくれる親の事を改めて振り替えるタイミングにもなりました。

そんなお高い大皿はさすがにないんですけど、せめて西瓜でもと思った時を思い出して、「じゃあ一玉ください」って言って買い、数日して皆で分けて食べました。
塩なんてかける必要ないくらいの甘さにびっくりして、いい買いものしたなーって。そして先生お元気かなって思い出す。

最初に西瓜の話聞いてもう何年も経ちますけど、人とのやり取りの数珠繋ぎというか、出来事があるから繋がるんですね。


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