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クリスマスイブのおばあさんに幸せを分けてもらった話

クリスマスイブ、インフルエンザ明けの私は仕事関係でちょっとした用事があったので少し出かけた。まる四日間引きこもってほとんど寝て過ごしていたのでなんだかめまいがするような、ふらふらの状態で電車に乗った。

電車の中には若いカップルの男性に激怒しているおじさんがいた。なんだか、新宿駅で乗車時に抜かされたとか蹴られたとかで、席も空いているのにずっと怒っている。普段だったら「抜かされたのだとしても、ここで大声を出して周りを怖がらせていい理由にはなりません」とかなんとか言って(第三者が何か言えばたいていの場合は終わるのだ)助けてあげたいところなのだが、私ももう駅に着いた時点でぐったりだったので目的地までずっとその怒声を聞いていた。

仕事の用事が終わり、休んでいた間の事務作業を終わらせたかったので喫茶店に入ったら、「おまえのほうがきめえって話wwww」の大爆笑大音量トークガールズと「いやふざけんなよおまえまじだりぃわ」のガチギレボーイズに挟まれて作業どころではなかった。クリスマスイブはなんだか人の心がざわざわしているようだ。

けれど、いいこともあった。帰りの電車でとなりの席にすわったおばあさん。なんだかカバンをがさがさしていて落ち着かないなと思ったら、折りたたまれた一枚の薄い紙を取り出した。筆圧でうつされた控え用紙だ。失礼ながらちらりとそちらを見てしまったところ、伊勢丹(高島屋だったらまた複雑な気持ちになったかもしれないが…)のケーキ予約の受け取り控えのようだった。日付に◯印、受け取り時刻が書かれたその用紙をおばあさんは長いあいだ念入りに確認し、大切そうにまた折り目通りにたたんで遠慮深い動作でカバンに戻した。つめたく乾いた老いた指先には、冬のやわらかな光が射す。あたたかなクリスマスの光景だった。その用紙は、ほんの数十分後にクリスマスケーキに変わっただろう。途中で転んだり落としたりしなかっただろうか。ごちそうを食べたあとの食卓に、ぶじに運ばれただろうか。きっと、あたたかな部屋で、美しい食器のうえで「食べきれないよ」とか言いながら食べたんだろう。
お孫さんと食べたのか、パートナーの方と食べたのかと考え始めて、これは野暮なことだと思い直す。一人でだって、大勢でだって、百貨店で予約したケーキを食べるその時間は幸せに違いないのだ。

怒っていたおじさんも、大騒ぎしていた少女たちや喧嘩していた青年たちも、穏やかで幸せな夜を過ごしていればいいなと思う。私自身も、あのおばあさんがいたから、今夜は穏やかでいられるのだ。
こんなふうにして、人は生きているだけで人を苛立たせもするし、気がつかないうちに人を幸福な気持ちにもするのだ。
それだけ人はもろい(私だけか…?)。だから、自分がいつ人の感情に影響を与えているか、そのことを忘れてはいけないのだなと思う。
できれば人には傷ついて欲しくない。一生懸命つくったものを誰にも壊されて欲しくない。この世の喜びを奪われて欲しくない。そう考えてはまた、これも野暮なことかもしれないとも思う。皆、私になんて心配されるまでもなく、自分の人生を、誇りを持って生きているのだろうから。

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