木下 精神医療について語り始める
ぼくがいわゆるところの「精神医療サービス」(それがサービスの名に値したのか疑問だが)の本格的消費者となったのは、二十歳の時のことである。
思えば発病の要因はごく幼少のころから考えられる。でも、はっきりといえるのは、上京して大学に入ってからのことだ。病歴をたどればきりがないけれども、分不相応な大学で、生まれて初めて落ちこぼれの実感を味わったぼくは、明らかな自閉と抑鬱の状態にあった。何度か精神科の門をたたいたりしたけれども釈然とせず、ぼくは酒におぼれていた。大学をやめ、音楽大学行くことに一瞬の光明を見出したぼくだったが、クラシック音楽界の閉塞した状況はぼくをより強い抑鬱状態に誘っただけだった。
音楽学校の試験のあとぼくは心から安堵した。個人レッスン再開までの一か月が、やっと訪れた休暇だった。そうして僕はまた嵐のように飲み始めた。酔ってぼくの「生きて」いた時代を知る仲間と語ることだけが、ぼくに「充実した生」を感じさせたのである。
そんなある日、ピアノと戯れていたぼくは、フリーミュージックと衝撃的な出会いをした。ショパンをさらっていて短二度はずしただけなのだが、きっかけだった。普通ならなんでもないミスなんだけれど、大量飲酒で妙に感覚が研ぎ澄まされていたぼくには、それはまぎれもない天啓だった。指の動きとペダリングと自分の「豊かな」感性にまかせれば、そこには刺激的で、巨大で、テンペラメントに富んだ音楽空間が出現する。やっとぼくは自分の楽器を見つけたんだ。この喜びは、多少でも自己表現ということに興味のある方ならおわかりいただけると思う。このあたりを書いているときりがないのでこのくらいにしておくけれども、ぼくは、自分の指から流れる血でピアノが真っ赤に染まっても気づかないほど、それに熱中した。
はじめは唖然としていた家族も、ぼくがジンを咥えてジャズ喫茶やらライブハウスに「殴り込み」をかけるにおよび、泣きながらN病院のK医師を訪ねるように頼んだ。自分の天才を信じていたぼくは、快く自作のテープとともにK医師のもとを訪れた。K医師はそれを聞こうともせず、一週間ほど休んでいかないかと勧めた。「君は面白い。私にまかせなさい」という一言で、ぼくは彼のもとに身を寄せることに同意した。
そしてぼくは、精神科医の一週間が一ヶ月以上を意味することを初めて知った。ようするに精神科医とは「よい子」をつくりだすもので、少なからず芸術的なものに関心を抱き、それを職業にしようとするものにとってはじゃまものにしか過ぎないことも。たとえいささか奇矯な行動ととらえられようと、社会に対して不適合なふるまいをしようとも、本来の目的である美と秩序をもたらすためのものであるとするならばそれは善だと、考えていたぼくにとって、その全国的に有名な解放病棟は地獄だった。この男に何を言っても無駄だと思ったぼくは良い子の演技を始めた。それが功を奏し、退院が決まって数日後、ぼくは初めての「分裂体験」をした。
もちろんK医師になど言うはずがない。いずれにせよ、それ以来精神科医に対する根深い不信が生まれたのはいうまでもない。
その後、何度も鬱状態を経験し、自殺未遂を繰り返し、あるいはトリップし、神的体験をもしたが、ぼくは精神科医のもとを訪ねようとはしなかった。精神安定剤を常用していないことに誇りすら抱いていた。
そうして、とある出版社に職を得ていたぼくは、オカルト関係の単行本の企画の一切をまかされ、ある小宗教団体と出会い、ビッグ・バンを起こすのであるが、ここはこれ以上のべる場ではなかろう。とにかく、K病院のH医師と出会うまでぼくの放浪は続いたんだ。
ぼくがH医師と初めて出会ったのは、まだ改装前のK病院の薄汚れた診察室でのことだった。幻視者たるぼくの目には、彼のまわりにはいままで見たことがないほどの知のオーラが輝きでているのがわかった。一口に知といっても、それは、人生の深奥を見たものの、一種やりきれないような諦念と、なおかつそれに立ち向かっていこうとする、なん と言ったらいいのだろう、自分の道を持った人間だけが放つことができるエネルギーをはらんだものだった。その圧倒的なパワーに、ぼくは睡眠発作に襲われながらも治療契約を断った。最初から治療契約をこと細かにしゃべり、少なからず異常な状態にある患者の自由意思を尊重するとは妙な医者だなあと思いながら。
さまざまな身体失調を抱え、疲れ切っていたにもかかわらず、ぼくは人間の本質を悟った人間だ、ぼくらの理論では狂気の本質は完全に解明されている、そう強弁し続けた。一時間ほどのやり取りのあとだろうか、H医師は口調を変えてこう言った。
「素人談義はこのくらいにして」
その一言でぼくはさあっと冷めた。ぼくは一編集者であって、ディレッタント以外の何ものでもなかったのだ。
「上司も家族も休養してよいといっているわけでしょ。休んで困るのはあなただけなわけだ」
そういうと彼は、「どうです。十日間だけ、一日二本、この点滴を受けるだけでよいですから、やすんでいきませんか」
ぼくはその成分表示を確かめながら、なぜかその言葉を素直に受け入れた。精神科医の十日間は一ヶ月にも二か月にも及ぶかもしれないことなど念頭にも浮かばなかった。彼の言動に嘘はない、そう感じたのかもしれない。その薬は、あとになって外科医である叔父が
「これはぼくらが前麻酔に使うものですよ。よく起きていられますね」と驚いたような「しろもの」だったけれど。
正直な話、それから四、五日の記憶は曖昧だ。いろいろなひととの出会いがあって、精神病院と「病者」に対する偏見が次第に失せていったのは覚えているが、そしてほとんど枚に彼と面接していたことも覚えているけれど、四日目か五日目に、彼にたのみこんでその点滴を中止してもらうまで、ぼくは朦朧としていた。そうして一週間目、ぼくは「軽く驚愕した」。「もう退院してもいいですよ」
十日間が七日間になったのだ。濃密な七日間だったが、この驚きは精神病院に入院「させられた」ことのあるもの(「した」ものではない)にしかわからないと思う。ぼくは十日間の間に得たすべての心の友に別れを告げて東京へ出た。
それからもいくつか事件があり、ぼくは定期薬を切り、分裂状態の極限を見て、一ヶ月もしないうちに飯田へ帰ってきた。再入院する一週間ほど前から、ぼくは自分が廃人になってしまうに違いないとおもうほどの「混迷状況」におちいりながら頑として入院を拒んでいた。深夜、無理に連れていかれたK病院の若い当直医師の頭の悪さに激怒し、「激怒されて」帰ったことや、伊那のレストランへぼくを食事に誘ってくれた友人が、家族と通じていてぼくを強制入院させようとしている、と思ったことなどを覚えている。それ以外にもいろいろな事件を起こしたのだけれど、ある日、K高原までドライブにいこうという母と兄の誘いを、その意図など知りながら、ぼくは断らなかった。ここまで来たのだから病院に寄っていこうというふたりの言葉にも素直に従った。そうしてなにげなく外来へ向かったぼくらの前に、ごく自然にH医師が現れたのだ。彼の姿を見たとたん、ぼくは握手を求めて、「お願いします」と、彼にすべてを委ねる決意をした。あれは不思議な感情だった。立った七日のつきあいなのに、このひとはぼくの真の理解者なのだという確信が生まれていたのだろうか。彼の姿を見ただけで、あれだけ入院を拒みながら、自由入院を、コペルニクス的転回で受け入れた心理はいまもって説明できない。あるいは、現在のような彼とのかかわりを予期していたのだろうか。
文学を幼いっころから志していたぼくは、思春期から「常識」を疑うことを知っていた。だから、「健常者」の常識の噓、たとえば「社会復帰」という言葉ひとつにすら含まれるその差別意識にもすぐに気がついた。それは意識されないがゆえにさらに重い。ぼくらでさえその幻想に振り回される。それは「見てしまったもの」を忘れろということに等しい。だいたい、社会ふきなどという言葉は、刑務所、そして精神病院などに収容された者にしか使われない。「システム」に疲れ切って安らぎを求めているナイーブな人間に対して使うべきではなかろう。
ぼくはエリートのはしくれだった。差別することは知っていても、されることはなかった。狂気を経ても、狂気と悟りの類似性だの、創造的狂気と真の狂気との差だのとならべたて、自分の立つ位置を見失っていた。「障害は個性だ」という「青い芝」の叫びがぼくのこころに届くまでに大変な時間がかかった。
独自の患者会をつくり、患者同士の交流を深めなければと思ったのも、最初はぼくがどうしても適合できない社会に対する復讐・反逆のつもりだった。けれども、「反体制」という立場も権力なのだ。何事も”アンチ”を立てることは、相手を自分と同等以上のものとみなすことだ。そうしたい手と同質のものにもなりかねない。それに気づいたとき、ぼくは「非体制」という言葉を知った。それはやがて「非社会復帰」「非権力」というように広がっていくのだが。
っ近頃「反社会復帰」をとなえる患者会が増えているようだ。しかし、「反社会的」でありながら社会生活を営み、行政や政治にかかわっていくのは、言葉のうえの矛盾以上以上に何かしら不都合なものがあるように感じる。「社会復帰」という言葉に含まれる差別と疎外(英語ではこれと狂気は同義語だ)性を認めるのにやぶさかではないぼくだが、それいたいしてただ”アンチ”を立てるのは、いたずらに「敵」の範疇に自らを封じ込めることになりはしないだろうか。敵にとって一番恐ろしいのは相手が何ものかわからないときであり、見えてしまえばそれなりの対応策も講じるだろう。もっとも、これは「健常者」が病者を恐れる理屈にも通じるけれども。そうして、ぼくは、ぼくの言葉が、次第に健常者に通じなくなってきているのにも気がついたんだ。それはどうしようもないことなのか。共通のコードはいつか現れるのか。左翼でもなく、右翼でもなく、ましてや「保守」でも「革新」でもなく、「非社会的」「非政治的」で、なおかつ十分にヴィヴィッドでラディカルな生き方というものはないのだろうか。
まず、ひとは、自己表現衝動の強いもの、狂気としてしか自己表現できないものの存在を認めたがらない。
たとえばこんな事件があった。ある病棟で「患者」が給食のカレーがまずいといって、配膳しても誰も手をつけなかったのである。それはその病棟の半数以上の患者に及んだ。その中にはカレーが大好物でカレーの出る日を指折り数えていた人もいた。ほとんどが長期在院者だったのだけれど、看護者たちは首をひねった。結局その患者たちにはシチューが配られたのだが、ぼくはそこに患者の哀しい自己表現を見たような気がした。それは、突然あたえられた「自由」に対する意識無意識の反発だったのではないかと思うのだ。長い「閉鎖」を経験した人たちにとって「自由な自己表現」などどう扱ったらいいのか、手にあまるのは当然ではないのか。けれど、その人と同じ平面に立ったとき、「了解不能の行動」の奥に潜んだ人間としての痛切な自己表現が読み取れるはずだ。
ただ、こんな体験もした。赤堀さんの問題の集会に出たときのことだ。「病者解放」を「階級闘争の一部として」位置づけるアピールを聞いてぼくは愕然とした。「病者解放」という言葉すらアンヴィバレントなものとしてとらえているぼくにとって、それは、もう茶番にすらとれた。だってそうだろう、既成の社会になど押しこめられないほどの過剰を持った者の精神の全的開放が狂気だとぼくはとらえているのだから。マルクス「主義」の範疇になど「病者解放」がおさまるはずはなかろう。「運動家」は物事を自分の小さなスケールでしか見られないのだろうか。真の革命の芽がここに眠っているというのに。
それからしばらくして、ぼくは山谷の問題に長くとりくんでいる友人にこういってしまった。
「ぼくらの運動を政治運動に堕落させたくない」
彼はかなしそうな眼をしてしばらく考えてからこう言った。
「政治というのは人と人との関係性のことなんだよ」
ぼくはびっくりして彼の目を見つめた。でも、その彼の言葉は正しいと思った。
精神病者であることを誇りに思う、といったときの、セクト的なものに属することとも、宗教的なものとも違う、帰るところのない、帰属意識のない、絶対的孤独を知るものとしての強さ、喜びを、彼は知っているのだと思った。そしてぼくは精神病者であることを誇りに思う。
ぼくを「理解」し、一時「社会復帰」させてくれた会社の社長がいる。地域開発の現地踏査でずいぶんと山奥を歩き回ったあと彼は言った。
「これだけできれば十分人なみですよ」
そのときぼくはその友人と同じような眼をしていたに違いない。同じ人間なのだから「人なみ」のことはできて当たり前なのだ。ぼくはその言葉の奥に横たわっている、おそらく多くの人が持っているに違いない善意の無理解を想って寂しくなった。どうしての話はぼくらの患者会「ノマドの会」のことになってしまうのだけれど、「病者にもこれだけのことができる」というのはあまりに哀しいと思う。「精神を病んだ」ものにしかできないことというものはないのだろうか。ぼくはそれをみつけるために「ノマドの会」という場を設定したつもりだ。病者同士が出会い、言葉をこころを交わすこと、これ自体がまず難しいという現状の中でそれを言うのは、まるで夢物語なのだろうか。
いずれにせよ、病者はもちろん、医療従事者も大きく変わらねばならぬところにきていると思う。
K病院の欠けている部分にはあえて触れなかった。それは「欠けている」などという言葉では及ばないほど本質的なものだからだ。身をもって体験したことだけれど、「良心的」な医療ほど、それに対する甘えが生じ、結果的には「飼いならされ」てしまう。病者の自発性を奪っているのは、当の良心的医療でもあることを忘れないでもらいたい。良心的なケアと巧妙な管理とは紙一重なのだ。真にぼくらに必要なのはむ支持の支持とでもいうべきものであって、「障害という個性」を持った個人と、同じ人間としてぶつかり合ってくれることだ。ぼくらにとって、薬を飲みながら生きるというっこと自体が大きな「仕事」であることを忘れないでほしい。耳にタコができているような言葉だろうけれど、教育、管理から脱却した、白衣を脱いでも患者とつき合えるような、狂気と全生活的にかかわらざるを得ないほどに「真に」生きている、要するに「共に生きる」ことのできる医療従事者が今こそ必要とされているのではないか。
ここまで書いてきたところへ、静岡の古い友人からひさしぶりに手紙が来た。そのなかにこんな一節があった。
「医療従事者の嘆き、ぼやきを聞くのはもううんざりです。病者に救われている彼らのなんと多いことか!」
逆に言えば、病者の中に救いを読み取れないような医療従事者に「生きる」資格はないとでもいえようか。
ぼくは、このごろあらためて、しみじみと、この共に生きるという言葉の重さを感じている。
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