運び屋と整備士
相棒の機嫌が最高潮……否、最底辺に悪いのは、彼が口を開く前からひしひしと伝わってきた。それはもう、フロントガラスなどものともせず、皮膚を突き刺して内蔵まで届きそうな程に、冷気を放っている。
そんな彼の目の前に車を停め、降りるのを暫し躊躇ってから、取り敢えずドアを開ける。数秒動きを止めてから、息を吐いてシートベルトを外し、足を降ろす。
────思い切り踏まれた。
「ふざけんなよ、アンタ。今朝だよ、今朝。今朝、ガソリンの確認して、タイヤも調べて、細々した部分まできっちり整備して、窓も拭いて、ボディも磨いて、完璧な状態で乗せたよな? なのに、これは何? 何をどうしたら」
「これには事情が」
「黙らっしゃい。なんで口開くの。僕はね、ちゃんと仕事をしたの。アンタが無茶な運転しても我慢してね、って気持ちを込めて、丁寧にこの車を管理してるの。時間かけて、じっくりとね。なのに、なんで、こんな、ボロボロに、なってるの? 答えてみなさい」
声を荒らげることもなく、淡々と、けれども素晴らしく不機嫌に。相棒はよく回るその舌でグサリグサリと痛いところをつついてくる。
罪悪感はある。どうにかして、この怒れる相棒のご機嫌を取らなくては、早急に。
焦る頭は、口を置いてけぼりにして様々な弁明を用意するが、どれもこれも説得力に欠ける気がした。そうなると、いったいどれを選んで話せばいいか分からなくなる。
「巻き込み事故なんだ」
絞り出した言葉は、それだった。
相棒は、一瞬怒りを忘れたのか目を丸くして、溜め息を吐く。
「五歳の子供でも、もっと上手い言い訳考えると思うけど」
「本当だって。お前が丹精込めて整備してくれてるのは分かってる。だから、極力無茶しないように、って毎回思ってる」
「思ってるだけだよね」
「……仕事なんだ、多少無茶しなきゃいけない時もあるのは分かるだろ?」
「分かってます、分かってます。この町一番の運び屋だもんね、表も裏も、みんなアンタを頼りに来る。ステイサムもおったまげなスーパートランスポーター、でしょ? 悪いけどね、彼はもう少し車を丁寧に扱ってたよ。自分から壊しにいくような真似を頻繁にやらかしたりはしてない。壊されることはあったけど。こんな、ボンネットは半分裂傷、サイドミラーは両方切断、フロントガラスは粉砕骨折、って状態で整備士の所に戻る、なんて場面見たことないしね」
冷たく遠い目をして、彼らしい比喩を用いた皮肉たっぷりの小言。思わず目を逸らしてしまった。
口では、この小柄な相棒には勝てない。
そもそも、人間関係が嫌いで車とばかり接しているくせに、何故こんなにも言葉数多く話せるのかが不思議だ。仕事の合間に聴くラジオや、観ているテレビ、映画やドラマの影響だろうか。悪影響を及ぼしている気がする。
あまり本を読んでいる印象はないが、活字は苦手なのだろうか。
特に新聞など、車の整備用に使っているだけだと記憶しているが……
「……人が説教してる時に考えごとするなんて、本当に五歳児なの? それとも、なんて謝ろうか考え中?」
腰に手を当てて呆れ声を出す相棒に、思考の海から浮上する。目線をその顔に移せば、怪訝そうな目をしてこちらを見ていた。
素直に謝罪するのが得策だ。
「悪かった」
「何が?」
「その、車を壊して」
「そうだね。これはもう、僕の力じゃ手に負えないから、新しいのを買わないといけないね」
「悪い……でも本当に、わざとじゃない。大切に運転する努力はしたんだ」
「……そこまで言うなら信じてあげる。でも、新車代は今回の依頼料の、アンタの取り分を全部使うからね。足りなかったら、アンタのポケットから出すこと」
「……了解」
素直に頷けば、彼も溜飲が下がったらしい。冷たい光を放っていた目を少し和らげ、一歩下がり、車から降りるよう促してくる。
その様子にほっとしつつ、漸く車から降りて体を伸ばす。知らぬ間に緊張していたらしく、肩や背中がバキバキと音を立てた。
「まぁとにかく、お疲れ様。怪我はしてないみたいで、よかったよ」
「あぁ。お前の整備してくれた車のおかげだ」
「はいはい。無事に帰ってきて、軽口叩く余裕があるんだから、晩御飯作って。昨日も一昨日もウーバーだったから飽きた」
くるりと踵を返して駐車場を出て行く背中に、言い忘れていたことを思い出した。それを伝えれば、彼は振り返りもせずに片手を振りながら答える。
帰宅したのだと、実感できる瞬間だ。
「ただいま」
「おかえり」