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妖の唄ー酒に映る純朴な魂ー


ーー酒。

何故サケと呼ばれるかご存知でしょうか?
由来は3通り程あるようで。
1.『酒=栄え水』から変形していった。
2.『さける』という意味から。お酒を飲めば寒風邪気を避けることが出来るという『避ける』からきた。
3.『クシ』という古語から。
クシは『怪し』『奇し』
つまりは、木や石のくぼみなどに落ちた果実などが自然発酵して、その液体を飲むといい気分になれる。不思議な事だと『クシ』と呼ぶようになった。

ちなみに、『酒の神様』のことを『クシの神』(久志能加美、久斯榊)とも云う。

どの謂れも酒の徳を顕すものです。
酒の素晴らしさは酒が生まれた時から伝えられてきたのですーー。


「ふぅ……」
小さく溜息。
榊涼さかきりょう』は市大病院の個室に軟禁されていた。
末期の癌患者のみが入れられる病棟。
榊の溜息は個室308号室を飛び出し、他の患者の陰気と混じり合う。
まだ40歳。働き盛りのこの歳でこの仕打ち。自分の運命を呪わざるを得なかった。
榊は家族を持っていなかった。
両親も無くなって、結婚もしていない。だが、独りという事は無かった。
榊の人徳であろう。見舞いに来てくれる友人は多数にわたる。

そのひとり。この病院の医師であり親友の『五十嵐修司いがらししゅうじ』は彼の主治医だ。

ーーコンコン。
ノックの音。
「榊」
五十嵐の声。
「おう、入れ」
姿を見せた五十嵐は髭を蓄えた、腕のいい医師だ。
「今日は顔色がいいじゃねぇか、榊」
「よせよ、近いうちにくたばる相手によ」
榊の身体にメスをいれたのは、当然五十嵐本人で、なんの処置もせずに身体を塞いだ。
五十嵐は正直に榊に言った。
『お前の身体はもう……手遅れだった。助けられなくて、すまねぇ……』
榊は五十嵐を心からの親友だと、その時再認識した。
隠さずに正直に話した五十嵐の顔は冷静さを盾に助けられないという哀惜の念が見え隠れしていた。
そこに偽りなどないと思った。
こいつに死を看取ってもらおう。
残り3ヶ月だ。

「五十嵐よぉ……酒が飲みてえ」
「またかよ、榊。病院なんだよ、ここ。病人に酒なんか渡せるかよ」
「だよな……」
「俺はな、強力な薬でお前の寿命を長らえるなんてことはしたくねぇ。縮めることなんてのは真っ平ごめんだ!」

顔を歪める五十嵐。
「すまんーー」
酒をこれほど飲まない日が続くなんて思いもしなかった。
病魔による苦痛は当然だが、酒が飲めないことも榊には苦痛であった。
酒はいい。
飲めば平等に、寛大に酔いをくれ、良いをくれる。人種なんぞを飛び越えて人をはしゃがせてくれる。
こんなに素晴らしいことはない。
こんなに素晴らしいモノはない。
しかし今。
榊はそれを口に出来ない。
榊は死を待つだけだった。


そんな或る日。
黒いスーツとサングラス。
その男は紫煙を燻らせ病院エントランス前に佇んでいた。
見舞いの品とはとても見えない薄汚れた一升瓶を手に。
「ここでいいんですか?」
周りに人は居らず、独り言を言っているかのように見えるその男『麒麟』は更に呟く。
「そうですか、わかりました」
麒麟は携帯灰皿に煙草を仕舞って病院内へ。
迷うこと無く末期癌患者病棟へと歩みを進めた。
向かうは308号室。

ーーコンコン。
「こんにちは」
ーーん?聞いた事のない声。
榊はとりあえず招き入れる事にした。
「どうぞ」
入ってくる男は病院関係者とは程遠く自分の友人でもない。
ーー誰だ?この男。
「失礼ですが、どちら様?」
「いきなり失礼。わたし、麒麟と言うものです」
「キリン?そのキリンさんがオレに何の用で?」
「お酒を届けに来たんです」
「へ?」
「お酒。飲みたかったんでしょう?」
「そりゃ~飲みたいさ!!だが……」
ーードン。
榊の前に置かれた一升瓶には何の銘柄も打たれていない。
りませんか?」
その声と共に放たれた一升瓶の蓋。
芳しい香り。久しく嗅いでいなかった芳醇な香り。
ーー飲みたい。死ぬ前にもう一度。
「紙コップで申し訳ないんですけどねぇ……」
ーートクトク。
どこからとも無く出された紙コップに注がれていく液体。
「あなた、いったい……」
注ぎ終えた瞬間に笑みで答える麒麟。
「なぁに、酒の神々がやかましいものでね」
「え!?」
「あなたにコレを飲ませろって言うんですよ。さぁ……どうぞ」
少し白濁した芳醇極まりないその液体は何処か神々しさを感じる。
ーー惹かれる。
紙コップに手を伸ばす榊。
「とぶろく……ですな」
「ええ……神の酒ですよ」
「い、いただきます!」
榊は病んだ身体から湧き出る想いを抑えられなかった。
ーーゴクン。
なんだ……コレは。
どぶろくは飲んだことがある。
だが、コレはまるで別物!
信じられんほどの味わい。美味すぎる!

ーーコンコン。
「榊」
ーーヤバい、五十嵐だ!
入った瞬間に立ち込める香りに五十嵐の顔が変わる。
「お前!何やってんだ!」
動じず答える麒麟。
「宴会ですよ」
麒麟に掴みかかろうとする五十嵐!
刹那、麒麟は木の葉の変わり、風に舞う。麒麟の消失。変わった木の葉も消えていった。
いつの間にか、五十嵐の入ってきたドア付近に立つ麒麟。
「な!?」
「その酒は差し上げます。ではーー」
慌てて後を追う五十嵐。
長い廊下に麒麟の姿は無い。
「何なんだ!?あいつは!?」
「わからねぇ……だが、オレの夢を叶えてくれた」
「だが、お前、身体ーー」
「なぁ、五十嵐。頼むよ。乾杯してくれねぇか」
榊の顔はいつになく穏やかで親友を見据えている。
「お前とりてぇんだ」
「馬鹿野郎が……人の気持ちも知らねえで」
なんとも形容し難い表情で五十嵐は置いてある紙コップを差し出す。
「注げよーー」
榊から笑みが零れる。
「正直よぉ、俺もお前とりたかったーー」
五十嵐から溢れる本音。
ふたり、杯を当て、グイと乾した。
『はぁー!!美味いなぁ!!』
ハモるふたりに後悔など無かった。

ーー病院外。
「酒は百薬の長ってことでーー」
麒麟は笑みを浮かべながら紫煙を燻らせ歩き出した。

それから2ヶ月。
唐突に五十嵐から検査の要求があった。榊の変化を医師として見逃さなかったのだ。
検査結果。
「奇跡だ……あれ程転移していた癌が見当たらねぇ!後は手術で切り取れる!俺なら出来る!お前、助かるぞ!」


そしてーー。
熟成した32年モノのウィスキーを片手に麒麟。
「今度はバッカス殿ですか……やれやれ。酒の神は饒舌で人使いが荒いなぁ……」

神の酒を持ち、夕暮れを麒麟が行く。


[完]

サポートなんてしていただいた日には 小躍り𝑫𝒂𝒏𝒄𝒊𝒏𝒈です。