乞食の耳にイカを詰めて腐らせたもののような臭いのする足を持つ和尚の話 後日談
足の臭い和尚とキノの話はこれで終わりなのですが、後日譚があります。
都市計画論のレポートを無事提出できた私は、大学の帰り道、再び「元井ビル前駅」に降り立ちました。
あれから鰯田寺のことをよく調べました。文献に拠りますと、当時の鰯田寺は相当な大きさだったようですね。時は丁度、戦国。あの当時、寺の者たちだって戦に出ていくような時代でしたから、この辺りも大変な様子だったみたいです。
しかし、いくら文献を捲っても寺や足の臭い和尚がどの陣営に付いて、誰と戦ったのかは、全く分からず仕舞いでした。
当時の様子がよく分かる文献として上町郷土資料館に残されている「弾正台の源光忠入道の手記」は、この周辺の全ての寺がどの陣営について、損害はどうか、褒美はどうかと、事細かに網羅された几帳面な彼の性格がよく現れている資料になっているのですが、その手記のどこを探しても寺の名前が書かれていないのです。
何故―――?
これは私の推察なのですが、キノに罵倒された足の臭い和尚は、その後、他者の評価から開放され、誰にも依存せず己を保てるようになったのではないでしょうか。
そして、寺の和尚として血で血を洗う戦乱の時代に、何処の陣営にも味方せず、誰からの評価も気にせず、中立な立場で居続けたのではないでしょうか。
しかし、この推察には穴があります。
列島を巻き込む戦乱に、たった一つの寺が完全中立な立場をとれるはずがありません。
それにこの時代ですから、和歌も手記も随筆も、何だったら商家の帳簿なんかも現代には残っていて、そのあたりの資料にも「鰯田寺のその後」が一切載っていないなんて、全くおかしな話です。
まるで、鰯田寺と足の臭い和尚を隠そうとする共犯者がいるようで―――
その共犯者は弾正台の源光忠入道。彼は己の権力を持ってして足の臭い和尚と寺を守り、後世に後ろ指を指されることがないよう一切の記録を焼くように下々へ命令していたのです。
そして、共犯者はもう一人。
元商家の一人娘だったと噂されるその女は大変商才があったらしく、当時物資不足だったことを逆手にとって事業を起こし、没落しかけた家を救っただけでなく、戦乱の両陣営に高利貸しをしてどちらが勝っても多額の利益を得るように暗躍したりと、兎に角、当時のこの辺りで最も力を持った遣り手の女でした。
その女の名は、元井キノ。
キノは生涯結婚をしなかったそうな。しかし、血は絶やさぬよう子をもうけたようです。その子孫たちはキノの商才を代々受け継ぎ、皆が好きに生き、それぞれの事業を起こして成功していきました。冒頭で私が降り立った「元井ビル前駅」。これは、元井キノの子孫が建てたビルの名が駅名の由来になっています。
ではキノは誰と子をもうけたのか?
これも全くの謎なのです。
もしかすると人目を憚るような人物だったのではないでしょうか。
例えば物凄く足が臭かったりだとか。
だとすれば、光忠の徹底っぷりには感服いたしますね。
↓(後日談ふたたび)へ続きます。