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 蝉は一生の大半を暗い暗い土で過ごすと聞き「ああおれも蝉なのだ」と妙に納得したのを覚えている。

 順風満帆かに見えた男がひょんな事からころころと転落し地の奥底に身を窶すには大した時間は必要なかった。

 自分を蝉だと思えれば、壁で囲われた暗い四畳半に、誰かが敷いた固い布団に丸まって、樹木の根から蜜吸う彼《か》の虫のように親の援助を当てに息《いき》するのも当然のことに思えた。

 おれは蝉なのだ。
 蝉は蝉らしくおれば良いのだ。

 やがて夏が終わり秋が来て冬が来た。季節が廻り「ワタナベが死んだ」などとわざわざ報告してくる輩が来る頃には暗い地中暮らしも存外悪くないと思えるようになっていた。

 そうか死んだか。

 これ以上何の感情も起こらなかった。既に随分な蜜を吸いまるまる肥えた立派な幼虫のおれにはこれ以上の何物の感情も沸き起こらなかった。

 いくつかの季節が廻りまた夏が来ると水道が止まり電気の供給が途絶えた。そういえば、と親が死んだと知らせがあったと思い出した。虫のおれには関係ないことだと思っていたが、樹木の蜜が途絶えたことがわかった。ここが潮時だったのだ。

 おれは立ち上がった。そして地中奥底に安置された平和な四畳半を眺めた。ついに羽化の時が来たのだ。おれは玄関を出た。何年ぶりかの太陽はやや斜めに翳っていた。それが朝の陽光であるか斜陽であるか、虫のおれなどわからなかった。ただ背に当たる陽が身を焦がしていた。仲間の声が聞こえた。高いところに、できるだけ高いところに、と。

 昔勤めていた会社にやってきた。灼けた背はもうはち切れる寸前だった。羽化するなら部長室が良い。おれは受付嬢に「羽化するなら部長室」とだけ伝えてエレベーターに乗った。チュイーンとチャイムが鳴ってドアが開くと静止する人間どもを蝉の力で押しのけおれは真っ直ぐ部長室へ向かった。部長室は無人だった。すでに逃げた後のようだった。まあいいさ、とおれは壁に取り付き背を丸めた。どのみちもう限界だったのだ。

 羽化の時がきた。おれは壁にくっついたままパックリ背を割りおれの中身がニュニューインと海老反りながら飛び出した。

「よう兄弟」

 海老反りながら上半身だけ飛び出たおれの中身は抜け殻のおれに言った。

「羽化すれば新しい自分になれると思ったか? 暗い地中暮らしの過去が清算されるとでも思っているのか? ワタナベに罪を着せ、尻拭いをさせ、追い込み自死させたことがなくなると思ったか? 部長はどこに行った? 蝉の幼虫ように木の甘い蜜を吸い続けた虫はどこに行った? お前だろ、すべての元凶は。今更生まれ変われると思うなよ、キシ本部長」

 おれは抜け殻から出た。抜け殻は冷房の風で乾燥して崩れて粉となり排気ダクトに吸い込まれていった。おれは自分の部屋を見回してみた。見慣れたおれのデスク。見慣れたおれのソファ。棚には数々の賞状があった。それはすべて誰かを犠牲にして得たものだった。おれはデスクに立った。目の前のガラスを割って青い夏に飛び出すには勢いが必要だろうから。おれはデスクを蹴った。ガラスが思いの外厚く

 ゴクン

 と鈍い音が聞こえてからは覚えていない。



[終わり]

#ひと夏の人間離れ


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