濡れないきみを濡らしたい #シロクマ文芸部
新しい傘を買った。
その日は雨だった。
駅の改札を出ると、世界中のバケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。
煙のように立ち上がる雨で曖昧な風景となった駅前ロータリーにはなぜだかいつものトゲトゲしさはなくて、親密で柔らかいものに感じた。
風はなく、駅の庇を境に立ち現れた[濡れた世界]と[濡れない世界]。
デティールの曖昧な濡れた世界を見ていると、ぼくらの生きているはっきりしすぎた世界から切り離された別の世界のようにまるで見えた。いや、今や、曖昧に雨露んだあの濡れた世界こそが正常で、ぼくの立つ庇に守られた境界の内側、物事に白黒つけたがる濡れない世界こそ異常なのかもしれなかった。
確かテレビではこの季節では珍しく全国的に降雨になるでしょうと言っていた。となれば、庇の外側の濡れた世界に立つきみが正常で、庇の内側のぼくが、異物。―――なのか?
きみは言った。
「そうやって、白黒つけたがるから、生きにくいのよ」
きみは、傘もささず、庇の外、濡れた世界に立っていた。
「傘は」
―――どうしたの? そういいかけて、やめた。濡れた世界に立っていても、濡れない、きみ。どれだけ雨に打たれても濡れないきみのデティールは、土砂降りの中であっても乾いているはずだった。はずなのに、今もきみのデティールは曖昧なまま。
世界できみだけが濡れない理由を考えだしたぼくが堂々めぐりの思考を繰り返すのに見かねたきみは、ぼくの手をさっと引いた。
庇の外の、濡れた世界―――
きみに引かれたぼくの右手が濡れ、背と肩がしっとり冷たくすぼみ、革靴に雨が入り込んでいった。濡れた靴下がぺちゃくちゃ音を立て、ぼくの前髪から雫が垂れ落ち、きみに握られた手だけは濡れず、乾いていて。
濡れないきみはぼくに言った。
「わたしも濡れたいのに」って。
きみは濡れない。
乾いたきみを抱くと、ぼくはいつも悲しくなった。濡れないきみは決まって言った。
「あなたにも相応しい人が現れればいいのにね」
それがどういう意味かぼくには分からなかった。その日、ぼくはきみに傘を贈った。突然の雨でも困らないように、上等な折りたたみ傘を。濡れないきみは少し悲しい顔をして言った。
「ありがとう。とても嬉しいよ」
嘘だ。
なぜきみはいつも曖昧なんだ。
怒ればいいじゃないか。
泣けばいいじゃないか。
心まで、濡れたらいいじゃないか。
ぼくは言った。
「気に入ってくれて、良かったよ」
目が覚めると、きみは消えていた。
きみのいたベッドはサラリと乾いていて、きみの座っていた椅子もサラサラと乾いていて、昨日まで確かにいたはずのきみの名残は残らず消えていた。
玄関にぼくがきみに贈った折り畳み傘が広げて逆さに置かれていた。
生地の内側にきれいな青空が描かれた上等な折りたたみ傘。雨に濡れた曖昧な世界でもきみの気持ちが明るくなりますようにって選んだ生地。その生地には、
〚あんたなんか大嫌い〛
って、きみの下手くそな丸文字ででっかく書かれていた。
どうだろう?
曖昧な態度をやめて、少しスッキリしたのかな。悔し涙は、こぼれたかな。濡れないきみは、少しは濡れてくれたかな。
ぼくはきみの忘れていった(或いはわざと置いていった)折りたたみ傘を、早速使ってやろうと思いついた。高い金を出して買ったんだ。使わなきゃ、勿体ないしね。
玄関を開けると、昨日までの雨は嘘みたいに止んでいて、サラリとした冬風が頬を通り過ぎていった。
ぼくは、傘を広げた。
雨上がりのよく晴れた朝。
濡れないきみを追って。
[おわり]
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