見出し画像

なとなと小話2

創作の際に頻繁に悩むことがあります。
 お話に関係する以外の人からの「このキャラクターは、『この作品』の一部なので、○○さんに聞いて」といわれるときの扱いのことです。
その〇〇さん、が自分のときの立ち位置で、自分が作者の時の話。

 ちょっと何言ってるか分からない人も居そうな話なんですけど、これ凄く悩むんですよ、そして「キャラクターの考え方は、キャラクターが決めてるんだし」と思うんです。


例えば作品は『なとなと』や『音闇』全体であって、それを指して作品、って呼びます。そのとき、それぞれのキャラクターは、作品なのか?
見る側にとって、作品じゃん、何も違わないじゃんって思うと思いますが、
作品は、商品としての全体で、
あぁ……つまりなんだこれ(なんだこれ)

キャラクターの人格


 私は全体として、作品、を決めていますが、 作品は作品で、登場人物はそれぞれの人格を持っているそれぞれの人物なので、実は設定決めた後、ある程度勝手に動いてくださいって感じです。

 役者さん、此処で言うキャラクターとかは、作品というかその一部で、
まつりやななとは、『作品』というよりも、つまり、作られた単なる文章という概念として処理することが作者側には出来ないですね。
だから、作品と扱われるのがモヤモヤする。
いやそりゃ商品としたときは作品なんだけど、作者にとって作ったものであって、だけど人が居る前提も同時にあるんだなぁというか。
作っているのは、全体としての作品であって、でも誕生日とか、性格とかは所有物というより他人を眺める感じなんですよね。

 所有物っていうよりも、その人ごとに、許可取った?という感情になるので厄介。神様みたいにモデルみたいなものは自分の中にいくつかあるんですが、でもそれが自分でどこまで自分なのか。作者ではあるけれど、
私は私自身ですが同時に私自身そのものの身体を作ったわけではなくて、私の誕生日や人格は外部によって形成されたんです。あぁ、伝わるかな。えっと、だから、うーん……

数年前、同人から作家になった某作家さんが、「使って嬉しい」「使われて嬉しい」みたいな感じでキャラクターをやり取りしてたの見た時の感覚を、思いだしたんですよね。批判では無くて、私はそれが流れてきたときに苦しくなって、どうしようもなく、なんか、モヤモヤしたというか。
 文化の違いなんですが、その文化を当然のように「貴方もだよね!」みたいなノリで会話に加わりそうになったときに、逃げてしまって。
 別の某作家さんと関わり()があったときも、その所有物としての人身売買的距離感に驚いてしまいました。
それで、そのときのことも思い出してたんですが

「勝手に作品を使ったけど君の為だった」という趣旨だったときに、
作品、に全ての人格も含まれていることが恐ろしくなったんです。
確かに『作品』は置いてるけど、なんか予想した距離感じゃないというか!

曲と、ミクさん達は、私にとって別々であり、同一である感じですね!
いややっぱり別々に存在するよな??
そしてその一部というか。
ミクさんたちはそれぞれのある程度の人格?みたいなのはあって、
曲は作曲者の人格も含むみたいな、でもそれぞれがある

そんな感じ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?