プロレス大賞ってもっと部門細分化した方が良くね?

どうも,今回は最近思っていることについて記事にしようと思います.

それは,
「プロレス大賞ってもっと部門細分化した方が良くね?」
ということです.

これについては,前々から少し思っていたことではあるのだが,
記事にしようと思ったきっかけは,昨今の顔面蹴りからの誹謗中傷騒動を見ていて,「こんなにも勝ち負けを評価基準としてプロレスを見てる人が多いんだな〜」とびっくりしたからです.

決してプロレスというジャンルを貶したり,嘲笑ったりしている訳ではないです.勝ち負けも重要な要素だと思います.ただ,それはプロレスを見る一部の要素でしかないとも思っています.プロレスは虚実混在したエンターテイメントだと思います.アメリカンプロレスの場合カミングアウト以降,基本的にリング内で行われることを虚の部分であるとして,そのクオリティをどのように向上,戦略立てるかを実の部分とした評価基準があるのかなと思います.ただ,日本のプロレスの場合,幾度かあったカミングアウト(高橋本が一番大きかったかなと)に蓋をして,よりグレーにすることで,いわゆる勝負論をストーリーに組み込むということがなされていると思います.それ自体は全然良いと思うし,試合が生み出すリアリズム強調することでもあるし,「ひりつく展開」が期待できるのが独特でおもしろいのだと思います.試合後に「あれガチだったのかな?」なんて感想戦ができるのは日本独自のグレーにするという特徴が故だと思います.

しかし,この虚実をグレーにするということは,プロレス自体がニッチなジャンルで観客との間に強固な共犯関係が確立していた場合でのみ有効だとも思っています.「ゆーてわかってますけども,一旦裏側のことは蓋をして楽しみますわ」という楽しみ方ができる人のためのグレーさなのだなとも思います.なので,基本的に勝ち負けに対する評価は低く,リング内外で織りなすストーリーをどのように自分の頭の中で脚色,構成して楽しむというのがこれまで行われてきたことだと思います.いわゆる,ストーリーをメタ的にも捉えつつ,非メタに落とし込む作業が必要で,この作業が暗黙として広まっているという非常に特殊で素晴らしいジャンルだと思います.

一方で,この暗黙の作業がプロレスの魅力一段上げる要因のはずが,そこに蓋をせざるを得ない.なぜなら,プロレスに対するメタな視点は,それのみでは面白いと感じられない.そのまま非メタに楽しんでいる人にメタな視点を入れると一時的に興味失わせ,いわゆる「茶々を入れた」ような状態になる.プロレスファンダムにとってみれば,せっかく好きになってくれた人を手放してしまうような形になるので,今の所なるべく茶々を入れないようにするというところに収まっているのかなと.

昭和から平成,そして令和までプロレスを見てきたファンはこの暗黙の作業を確立したファンと意図的に蓋をしたファンの両方が混在していて,蓋をすることに疲れたファンというのが,結局のところ離れていったファンなのかなと.しかしながら,ここ10年くらいで急激に新規プロレスファンは増えている状況があると思います.そして令和の時代に新しくファンになった人たちの目をどのように育てるかという論点がファンコミュニティで必要になっている気がします.肌感覚では新規のファン層はこの作業を確立させようとしている「善良なファン」(ほとんどが善良だと思う)と共犯関係を結ぼうとしない「素朴であろうとするファン」がいて,この素朴であろうとするファンのプロレスの見方をどう懐柔して育てていくかということが,プロレスを盛り上げていくことに非常に重要な工程だと思います.言い変えると,「ガチだと思いたい層」を排他的にプロレス村を形成するのではなく,その層の見る気を削ぐ訳でなく,上手くいろいろな見方を提案していくというのが大事なのかと思います.また,このガチだと思いたいというのも色々あって,「自分が見ているものこそが最高である」という意味のガチであったり,「選手の格はその選手の能力のみに依存している」という意味のガチというのもあります.

大幅に横道にそれたが,なぜこのような話がプロレス大賞の部門の話になるかというと,この暗黙の作業を浸透させる,「観客の目を育てる」ということに効果的なのではと思ったからです.特にベストバウトの部門は是非とも細分化すべきだと思います.というのも,プロレスにおける良い試合の評価軸はいろんなベクトルがあると思います.例えば,胸が熱くなった試合,話題性があった試合,技術が素晴らしかった試合,組み立てがうまかった試合,アスレチック的に素晴らしかった試合などがあると思います.いろんな試合を見ていた人は各々の中にそれぞれの部門を作っていて,自分の発信できるメディアを通して発信いていると思います.しかし,素朴なファン層がそのようなメディアにアクセスするような気がしておらず,現代的な見たいものしか見ないような情報収集になっているのかなと.

ただ,プロレス大賞は素朴であろうとするファンにも届いているのかなと思います.そこにいろんな価値基準を導入して,「こんな見方もあるよ?」「こういう試合もいい試合なんだよ?」といろんな価値を提案することで,ファンの目を養っていく工程が必要だと思います.そして,賞を一つのところに集中させない,絶対的な1位を決めないことによってファンの中の「最高」であったり「強さ」の評価基準にバリエーションを持たせて上げることが重要だと思います.そうしていくうちに,その根本にある「作り手」側の意図を暗に浸透させていくことがいわゆる「育て」になってくるのかなと.

今のプロレス大賞はなんとなく最近の2.9プロレスのみが評価基準になってきていると思います.そしてその期間が長くなり過ぎていて,本来「プロレスのいい試合とする1基準」であったはずが,「これこそがいい試合なのです」と主張し始めている感覚があります.そもそも,どんなジャンルのアワードも,映画ならアカデミー賞の作品賞,脚本賞,脚色賞などがあり,ゲームならGameAwardのGame of the yearの他にベストアクションゲーム,ベストRPGなどがあり,それぞれ複合ノミネートされることだってある.プロレスの試合もいろんな展開あって,それぞれが素晴らしいはずなのに,それを一括りにして評価するということに無理があるように感じるし,一括りにするとトレンドを表す指標にしかならなくなってしまう感覚があります.今はプロレスの試合もサブスクのアーカイブで遡って見れる時代になったからこそ,メディアの側がいろんな評価基準を提案して,ファンの評価基準を増やしていくべきだし,新規ファンが「違った味のプロレスが見たい」となった時の道をメディアの側から用意すべきだと思う.すなわち「自分の見た試合は最高だった」という感覚に一定の正当性を設けてあげることが,現代の若い世代に対しては必要だと感じる.そして「こんな最高もあるよ」と別の価値を提示して,その道筋に誘導して上げることが,若いファン並びに新規ファンの獲得にとって必要なことだと思うし,それが最終的にファンの目を育て,プロレス業界が盛り上がることにつながると思う.

この考えのもとになっているのも最初に書いたように顔面蹴りからの誹謗中傷騒動である.この一連の騒動の根本は「いいプロレスとは何か」という基準を長らくトレンドに囚われ,1つの基準にのみ集約してしまったが故の問題だと思う.そしてメディアの側が多様な評価基準に正当性を与えなかったがゆえに,見たかったものが抑圧されていたり,見てないものを許容できない状態になっていて,それを選手個人の責任だと思ってしまう.そんな「育てられなかったファン」というのがこんなにもいるのかとびっくりしたと同時に,「育てようとしていないメディア」の失敗があるのではないかと感じた.プロレスを「格闘エンターテイメント」だけでなく「格闘芸術」という側面にもスポットライトを当て,評価していくことをメディア側が提示し,ファンダムの中にプロレスを批評的な見方をすることを浸透させ,前述した暗黙の作業を「より面白く見るための道筋」として確立すれば,プロレスの新規ファンの何割かをその道筋に自然と誘導し,育てることができるのではないかと思う.

色々まとまってはないが,結局メディアが悪いみたいな話

しかし,これからくるであろう,プロレスの本格的なクロスオーバー化に備えて,ファンダム内部で本格的に「プロレス独特の暗黙の了解」の立ち位置と,それを伝えていく手段について考えていく必要があると思った.

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