最近短歌についてかんがえちょること
短歌を楽しむことについて
先ずは上にあげた短歌を評していこうと思います。
一読して、インパクトをうける。上の句ではニチニチした情報量で下の句で一気に世界が開ける、日常の一コマを切り取ったディテールに嬉しくなる。
この短歌は難解なのであくまで私の解釈が強く出ていることを、客観性が失われている可能性があることを先に言っておきます。
「詩」も「愛」も「光」も「風」も「暴力」も
これらが具体的な何を言っているのかはもちろん分からない上で、これらの単語一つ一つは本来短歌一首ではなかなか語りきれない情報量を含んでおり、連作短歌あるいは歌集を通して作者が説明するのが賢い伝え方だと思う。
なので対象を「中身」と「ラベル(名前)」に分離した時に読者はラベルの方だけを受け取ってしまう。その上かなり抽象的なラベルで、読者は5連撃そのパンチを貰うことになりどうしようもないぐらいの「混乱」を覚える。
そして、きょうごめん行けないんだと言われると安心したような気持ちになるが、私はこの一文は「今我々が住んでいる『世界』」と「この短歌の『世界』」を同化させる役割があると思う。
結果としてこの短歌は何をしているかというと「今我々が住んでいる世界」を映し出そうとしていてそこには詩も愛も光も風も暴力もあって本当にぐちゃぐちゃでどうしようもなくて、我々はそんなどうしようもない世界を混乱したまま生きているんだ、という風に解釈しました。
上の文の混乱したまま生きているんだ、について
なぜこの解釈にいたったかと言うと5連撃パンチを貰った時に実際に「混乱」を体験したからです。
この短歌における最大の技術評価点は実際に描きたい世界を読者に体験させることで納得させる所だと思っています。現代アート的なレトリックがあるなと思います。
その上でこの短歌をどう楽しむか、本題に入っていきます。
いや、それお前がこの短歌をゴリゴリ解釈しただけでほんまに短歌楽しめてんのかハゲタコと思った人もいるでしょうが、正直なところあやふやです。
短歌の楽しみを短歌の文面をみてスパッと内容が入ってくる①次的な面白さと色々考えて面白くなってくる②次的な面白さに分けると、上でした解釈は②に分類されるかなと思います。
その上で強く言うと僕自身②より①の方が高級な面白さだと思っています。なぜならスっと入ってくるから。整合性は無いぜぇ…。
だから歌会でもできるだけ①から得た情報だけを言うようにしていて、解釈した結果、あるいは妄想のようなことはなるべく控えるようにしています。地の文に即したことを言いたいからです。
ここで話しは変わりますが、柳本さんの短歌の解釈を行ったときは机でうーんうーんしながらではなくイアホンガンガンにして音楽を聞いている時にふっとこの短歌を思い出してああそういうことかぁとすごく短い時間で理解しました。その時はこの短歌の解釈を①で行えて、実際のところ①と②の境界は結構あやふやなんじゃと思います。今①で楽しめるかと言うと無理。読者の感性に結構依存しますわな。
うー全然論がまとまらなかったからこれで終わろうと思います。悔しー!読んでくれてありがとう!少しでも伝われったらうらら嬉しいンゴねぇ
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