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奥泉光教授の最終講義についての聴講記録と所感

【参加したイベントの概要】24年間にわたって近畿大学文芸学部で小説創作を指導されてきた奥泉光教授の最終講義がトークイベントとして以下の要領で行われます。
「トークイベント 小説の現在地」
2024年2月4日(日)15時~17時
会場:近畿大学A館301教室
ゲスト:島田雅彦氏
    江南亜美子氏(司会)
聴講自由・配信無し

奥泉光教授の最終講義についての聴講記録と所感
※この記録には、実際のやり取りに比べ多少の前後と、筆者の私見・解釈が含まれています。ご注意ください。

1)近畿大学文芸学部の成り立ち
 1980年代ごろから2000年代ごろにかけ、後藤明生氏の懇意で作られた当文芸学部が、外国文学のピークからクリエイティブ・ライティングへの移り変わりがあって、そんな中で奥泉先生が赴任した時期になっていった。

2)奥泉先生のクリエイティブ・ライティング観について
 成り立ちの導入から、島田先生より奥泉先生の作品群とコンテキストの解説やコメントが広げられていった。最初のコメントは、奥泉先生著の『雪の階』、『東京自叙伝』などから、アジア戦争の背景が随所にみられるとのことだった。
 戦後小説つながりで大岡昇平辺りの、戦争への創作意識が強い世代もあったのでは、との分析を付け加えてもいた。
 島田先生は続けて、学会ではある種タブーではないかと思われる、「天皇の祖先」などの存在を出しておきながら、実在する人物の名前も出さない、奥泉先生固有の表現についてもとりあげた。
 戦争をはじめ大小に関わらず、歴史に対してのifを投げかけることが、創作の原動力でなっており、昨今は私小説が割合多くはなったものの、と持論についても展開した。
 一方司会の江南先生からは、「小説の現在地」に着地せんと、昨今私小説が主戦場となる創作の世代では、陰謀論を信じてしまうZ世代や、作中にある出来事の当事者ではないことを気にしている若い筆者が、批判にさらされる不安についても触れていく。
 昨今はわかりやすい販促用のパッケージを意識し、読者をかっさらうような、消費を加速させるような、容易にページをめくれてしまうような、そのような作品が好まれていく傾向についても分析し、競争の加速化による創作の意義への問いかけもあった。
 そのような、戦後文学などの奥泉先生のコンテキストを捉えつつ、奥泉先生からのコメントを引き出さんと語る島田先生と、昨今の著者を取り巻く事情から、奥泉先生から現在の作家にメッセージを送ってもらおうと誘導していく江南先生だった。
 しかしながら、意味深に含みをもったような物言いで、両者にも応じるのが奥泉光教授という人であった。
 奥泉先生に言わせれば、歴史上のどこを切り取っても、我々を常に取り巻く辺りに、今すでに物語はあるという。

3)現在地とこれからのクリエイティブ・ライティングへ(所感込み)
 島田先生からコメントがあった、奥泉先生の作品群を形成する「戦争の影」については、あくまで創作の中に滲み出る要素の一つであって、小説ですら発信するための手段の一つだとも答えた。
 江南先生から求められた、当事者ではない作家たちへのメッセージとしては、創作とは我々があるいは、ある人達がある組織だという認識であって、常に批判されうるものでもあると答えた。
 歴史にある全ての組織は、物語の中にあるとした上で、奥泉先生が「口のない人(取材も叶わず、当事者を描き出すしかない相手?)」「ある人をある状況に置くこと」を書くために、日本を書くならば天皇、中国を書くならば毛沢東、ロシアを書くならばスターリンといったような、国柄にどこか滲み出るであろう要素を創作に、含めておくことの大事さについても付け加えた。
 奥泉先生から滲み出ているものと、物語の中にいる人物たちを語る中で、ある組織の中にいることの説得力を孕んで滲ませるニュアンス。
 時に物語が形作られる取捨選択の中で、切って捨てられそうなそれは、当事者たりえない筆者が、抑えるところを抑えているという自信になって、その上で批判を待ち構える姿勢を作る、著者の背骨になるのではいうことは、聴講記録を書いてみた私の所感である。
 所感ついでに、奥泉先生が伝えんとしている物語について、人間には常に、前後関係のある事柄に直面していて、自分が何かしらに属している、そのような多数のイメージが平行している中で生きている、それこそが物語の正体と結論つけてみた。
 文学部不要論でしばしば、プロットや表現を経た後の小説や文学と「社会に出た後に役に立つのか」の噛み合わなさが争点となっているが、物語はその前提も前提。すべての人にあまねく降り注ぎ、常に歩いているそこにあって、過去にも未来にもあるであろう自己表現と、他者理解の中で、常に形作る要素を拾い集め、続けていくことを学ぶ場が文学部なのではとも感じた。
 そうであってほしいとは私も思うところだが、文学部はすでにそこにあるものを学ぶところなのだと、奥泉先生が伝えても、文学部不要論にさいなまれる学生には響かないようであったと、残念そうに語った。
 最後に、今後不要論の渦中にいる文学部と文学研究で教鞭をとっていた島田先生と奥泉先生が、学生もまるでAIがはじき出した結果のような者たちが出来上がっていくのではと語ったのは、印象的であった。
 AIは、与えられた命題を受け取り、収集した情報の募集号から傾向を導き出し、妥当な結果を出力する。島田先生に言わせれば平均的な結果が出来上がる。
決して揶揄するように話してはおらず、積み重なった歴史の分だけ、型にはまった人格が形成されるとおもえば、平均的という表現もしっくり来るように、私は受け取れた。
 そんな中でどこか脈絡もなく、AIが収集する枠の外のような、妙なことを言う変わり者が出てくるのをみてみたいとも語った奥泉先生は、最後の講義まで、どこか意味深に含みをもたせた、しみじみとしていた。


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