レヴィナスとハイデガー

ハイデガーに対する反論、というか反対を表明するさいに挙げられがちなレヴィナスだが、そのハイデガー理解はだいぶ怪しい。

レヴィナスは『時間と他なるもの』(『レヴィナス・コレクション』、ちくま学芸文庫、合田正人 訳)のなかで、ハイデガーの語る死に対してという形で、死ぬ間際の人間の弱さみたいんを書き、「死への存在」としての世界-内-存在について「主体の雄々しさ」とか言ったりするが、これもまた、ハイデガーの現存在の実存論的分析における話を「人間論」的な話に変えてしまっている。
『実存から実存者へ』や『全体性と無限』でもレヴィナスは「ハイデガーは志向の真摯さを見誤った」とか言う。ここで言う「志向」は、レヴィナスが理解するかぎりでのハイデガーの「日常的現存在」の在り方、「非本来的な在り方」だと見なしとけばよい。そのさいレヴィナスは「糧」とか言って、食べ物や家は「道具Zeug」ではない、とか言う。

以上の例示を通して、レヴィナスはハイデガーをいわば「観念論者」とし、ちょうど労働の実態をもとにヘーゲルに抗したマルクスのような立ち位置にある、ということはほんのりわかってもらえると思う。てる人たちに人気あるところじゃなかろうか。
『レヴィナス・コレクション』所収の『存在論は根源的か?』や『時間と他なるもの』や『逃走論』は短いので、気になる人は参照してください。『自由と命令』など、ハイデガーに対するレヴィナスの態度を知るにあたっては必読だと思います。

しかし繰り返すが、ハイデガーはあくまでも、存在者の存在を問うにあたり、世界の全体性を問うにあたり、現存在の全体性を考える手がかりに終わりとしての死をもちだしている。このことはハイデガーが何回か『存在と時間』で読者に思い出させるかのように、自分の足場を確認するかのように書いている。

つぎに、ハイデガーは「世界を道具の総体として見る」(レヴィナス)ことはしていない。まず、ハイデガーと言えばやたらハンマーの話が持ち出されるが、学問はその危機に際して基礎的な概念に立ちかえるものだという最初のほうの話からしても、クーンの「通常科学」をもちだすなら、「通常科学」の実践では問題なかったことが問題視されるようになって、「道具の故障」によって道具と道具の指示連関が主題化されるようになるのと同じで、基礎的な、エレメンタルなところが主題化されるわけだ。その意味でもレヴィナスの「実存的な」話はハイデガーの話よりはるかに人間論的で(ハイデガーの話は存在論だが)話の射程が狭まってしまっているように思うが、それは今はいい。
このとき、「道具はそれ単独で存在することはない」(ハイデガー)というのは、或る道具はまたべつの道具への指示関係をもつ、ということではない。それはレヴィナスのハイデガー理解であり、レヴィナスの理解ではそれは「主体」に、現存在の「関心inter-est」に帰着するわけだが、しかしなによりもまず、道具全体性への投企が気分のもとでつねにすでになされてしまっているということ、これが「道具は単独で存在することはない」である。
さらに言えば、人気のハンマーの例で言えば、ハイデガーは道具が目立たなくなることによって道具は道具としての本領を発揮している、というようなことを言っている。そのように馴染んだ道具が身近すぎるがゆえ遠いがゆえに、故障やなんやという迂回路を通してはじめて主題化されうる。その意味でも、「道具の総体」(レヴィナス)という言い方は、あらゆるものを主題化してそれらを道具と見なすような、そういう知性主義的なものとされているが、しかしレヴィナスが家はそのような道具ではないと言うなら、眼鏡だってそのような道具ではない(眼鏡を主題化することはできるがしかしそのとき他の何かが(周りumが)主題化されなくなったにすぎない)。わざわざ手(handen)に収まらないような家や、手よりかは口に向かう食べものをもちだすのは、しょうもない実証主義的な反証以上のものではない。








正気か?