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写真が上手くなりたい、と思う価値は


上手い写真って

僕はよく、写真はスポーツなどと同じで、反復が重要だということを後輩によく話している。
写真を始めたばかりの時は、とにかく1枚でも多く写真を撮ることが重要であり、数に勝るものは無いと思っている。そうしてしばらく写真を撮ることに取り組んでいれば、自ずと写真を撮る技術は向上する。
ここでいう技術とは、構図力や反応力、機材操作の習熟度のことである。

SNSでは「この写真上手い」「綺麗な写真」「素敵な景色」といったようなコメントが散見している。
これらの写真を撮った方は、恐らくその写真を撮るために時間・場所・モデル・構図・機材など、あらゆる物に気を配り、一瞬のチャンスを逃さないよう撮影したに違いない。もはやアスリートである。

このように、自分が狙った写真を撮り上げることがある種、写真が上手いということなのかもしれない。
だとすれば、僕は写真は上手くならなくて良いな、と感じてしまう。

僕が思う上手さとは

写真は言語に似ている。
畠山直哉さんも著書の中でおっしゃっていたが、同じような感覚を覚える。
僕にとっての写真は、1枚で美しさを語るものではない。1枚=1単語のイメージだ。
私たちは言葉を連ね、思想や哲学、知識を伝えることができる。古の哲学者が文字で思想を後世に残したように、僕は写真によって未来にメッセージを残したいのだ。(何を表現の肝にしているかは、またの機会に書き残しておきたいと思う)
先に述べたように、1枚の写真を美しく仕上げるのは、いわば綺麗な字を書く人のようなものである。これは書家に近い。
一方で僕は、文書の巧みさ、構成の緻密さなどが本当に上手い写真だと思っている。写真は連ねることで、意味を持ち、撮影者の考えを色濃く伝えることができる。
文字の綺麗さは重要ではない。綺麗に五十音を並べたところで、それはただの文字列であり、何のストーリーも思想もないからだ。

写真が上手くなりたい人へ

かつて、写真というものは閉鎖された世界の技術であり、その習得方法は限られていた。そのため、撮影する行為(撮影技法)に対するハードルの高さがあったのは事実である。
しかし時代は変わり、誰でも気軽に写真を撮ることができる。カメラの進化は個人の撮影技術についての力量差を埋め、良い機材を使えば誰でも綺麗な写真が撮れるようになった。(比較的少ない努力で)
写真が上手くなりたい(綺麗な写真を撮りたい)ならば、良い機材を使えばよい。
本当に写真が上手い人というのは、自分が表現したいことを理解(言語化)できており、それを写真という言語を使い説明できる人のことなのではないだろうか。


そういえば、インスタもやっております

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