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安部公房ー『箱男』論、その1ー

安部公房ー『箱男』論、その1ー

安部公房生誕100年、そして、『箱男』の映画化、今年大注目の、安部公房論を書いて来たが、いよいよ、『箱男』について、考察する準備に入った。この『箱男』というタイトルからして、抜群に面白いのだが、内容もかなり変わっていることは、もう周知の事実だろう。しかしそれでも、『箱男』について書くとなると、それなりの読み込みが必要だった。安部公房にとって、箱男とはなにか、箱男にとって、安部公房とはなにか、そんな思考すら浮かぶ程に、『箱男』は強烈である。安部公房の作品を挙げろと言われたら、『壁』、『砂の女』、『箱男』、と挙げる人も少なくないのではなかろうか。手始めに、必要箇所を抜粋して、考察を始める。

事実、ぼくの知っているかぎり、ほとんどの箱男が申し合わせたようにこの「四半割り」を使用していた。目立つ特徴があったりすると、せっかっくの箱の匿名性がそれだけ弱められてしまうことになるからだ。

『箱男』/安部公房

安部公房論で、何度も述べて来た、この匿名性というもの。正体が不明だから、誰が入っているか分からないということになる。俯瞰すれば、この小説が箱で、中の文章が実体だと、理解出来なくもない。しかも、「ほとんどの箱男が」とあるように、箱男はどうやら、単体ではないらしい。構造は、二層、三層、それは重層的に出来て居る。我々は、『箱男』を読む時、自分が箱に入った感覚に陥る。安部公房による、トリックに引っ掛かる。誰しもが、何処かに箱男がいるのではないか、と言う様な、一種の期待と不安、しかし、匿名性とある通り、実体は姿を隠した侭だ。

たとえば、君にしたところで、まだ箱男の噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくの噂である必要はない。箱男はぼく一人というわけではないからだ。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話は、まだ聞いたこともない。どうやら世間は、箱男について、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。

『箱男』/安部公房

「全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。」という述懐、そういわれると、まるで本当らしく聞こえてくる。実際、そんなことは有り得ないだろう、これは小説だから、と思っても、例えば街を歩いていて、人ひとり入れそうなくらいの、段ボール箱が、街の少し外れに有れば、我々は『箱男』を読んだあとに、何やら意識がその段ボール箱に向かうだろう。前述した拙稿で、『笑う月』に入っている、『発想の種子』に、二人の浮浪者の話を『箱男』に入れるヒントがあったことを、述べている箇所があり、『箱男』論で取り上げると言ったが、この事実を敷衍すれば、この箱男というのは、一種のメタファであり、浮浪者が段ボールにくるまって眠っていることなどを暗に意味して居る様にも捉えられる。実際、小説でも、浮浪者の話になっている、重要なヒントである。それにしても、どこかに箱男がいるなどという、馬鹿気た発想だ、では済まされない、何か、が看取出来る小説である。事実、箱男に見られている気がする、匿名性を持った箱男に、と思い始めたら、もう読者は、既存の世界へは戻れない。

我々は、安部公房にしてやられたのである。箱男の匿名性を消すには、自分も箱男にならねばならない。これは何も、段ボールが必ずしも必要だという訳ではなく、見る、見られるの、主体、客体の問題であって、例えば、見ることをした批評家、小林秀雄などは、箱男の範疇に入るのだ。というより、批評家、評論家、皆、箱男である。小説は、見られるものだからだ。こういう深いところまで突き詰めると、『箱男』というものが、如何に巧妙に創られているかが分かる。安部公房の発想力はすごい。安部公房は、見られるという小説に、見るという箱男を作ったのだ。まだ、この『箱男』論は、続きがあるが、取り敢えず、安部公房ー『箱男』論、その1ー、を終えようと思う。


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