埴谷雄高、句点、読点の【使用論】
埴谷雄高、句点、読点の【使用論】
㈠
埴谷雄高の文章を読むと、その長さと共に、句点、読点の、使い方の上手さが際立っていることに気付く。埴谷雄高の文章を読んだ初めの頃は、とにかく長い文章だな、と思い、また、文章の呼吸が上手く、リズム感が有って読み易いな、と思ったものだ。無論、述べて居る難解な内容は、難解だが、文章の上手さ、において、読み易いと思った、という訳なのである。このことに対して、当初は左程疑問を持たなかったが、有る時期から非常にその読み易い理由が気になって来て、何度も読んでいる内に、自分もその文体を模倣するようになったのだが、或る時ふと、これは、句点。読点、の使い方の上手さが、影響しているのではないか、と感じるようになった。
㈡
思い起こせば、埴谷雄高の作品に、初めて触れたのは、文庫本の、『埴谷雄高文学論集』だったと思う。値段こそ、講談社文芸文庫なだけあって、高めのものだったが、今思っても、その値段に充分値する内容が含蓄されていると思われるし、買って置いて正解だったと思って居る。やはり、今、さっと読み返してみたが、案の定、句点、読点が、流暢な文章の合間に、上手く使われている。この発見は、自己が小説を書く時に、非常にキーポイントになっており、悪く言えば、長文を書く時の、文章の長さを維持するのに、大変役立つ、句点、読点の、使用法なのである。このリズムを会得出来たことは、大きいことだった。
㈢
埴谷雄高、句点、読点の【使用論】、として述べて来たが、確かに、他の小説家とは、一味も二味も違う、使用法であって、長編小説『死霊』も、この例に洩れない。それに気づくと、何やら埴谷雄高の文章的呼吸法とでも言おうか、そのようなものが感じられてくる。非常に、この事態は、日本文学史においても、異常なまでに、稀な事態なのである。こういった、句点、読点の使用法は、埴谷雄高の系譜に位置する、安部公房の文体にも、それが強く認められるのだ。この、句点、読点の使用法は、強く、日本の文壇にも残しておいて後世に伝えて行かなければならないと思い、そういった思いもあって、この埴谷雄高、句点、読点の【使用論】、をかいている、ということでもあるのだ。この文章を読まれた方は、もう一度、埴谷雄高の作品に触れて貰えれば、句点、読点の、使用法に目が行くと思う。そして、後世に伝えて行きたいと思えるものだと、自身は確信している。これにて、埴谷雄高、句点、読点の【使用論】、を終えようと思う。