埴谷雄高、死後の世界まで続く【奇跡論】

埴谷雄高、死後の世界まで続く【奇跡論】

埴谷雄高論も、今回で、20論目となり、一度の区切りを付けようと思う。それにあたって、埴谷雄高と言う作家の存在を、改めて確認しておきたい。まさに、埴谷雄高の誕生は奇跡だった、と言っても過言ではないだろう。人類の最後の最後までを、自殺せずに、書き通した作家は、埴谷雄高くらいだと、思わざるを得ない、作品内容である。言ってしまえば、死後の世界まで、埴谷雄高は、個人に寄り添ってくれるだろう。ここで言う個人とは、埴谷雄高の読者のことだが、全体的に寄り添うのではなく、個人的に寄り添ってくれる、と言った方が適切なのである。それは、人類的なことを書きつつも、個体の滅亡についても述べているからだ。

それは、例えば人が埴谷先生と呼ぶと、埴谷雄高は、埴谷さんと呼んで下さい、と言った逸話からも、理解出来ると思う。飽くまで、一人の人間に対して、一人の個人で居ようとした姿勢が、このことから、充分に理解出来ると思う。先生だと、多くの人々の先生になってしまう、とも言えるからだ。㈠で書いたような、個人に寄り添ってくれる、人間、埴谷雄高、そして、埴谷雄高の作品は、死後の世界まで付いてきてくれるだろう。安心、の一言だが、決して人をなおざりにはしない、優しさ、というものが、埴谷雄高からは感じ取れるのである。そんなことは、有り得るだろうか、と思ってしまうのも、無理はない。自分も、ここまで、埴谷雄高に依存出来るとは思わなかった。

そう言った意味で、奇跡の存在なのである。埴谷雄高、死後の世界まで続く【奇跡論】、として述べてきたが、要は、㈠、や、㈡、で述べたことが、タイトルの所以である。このことだけは、最後に言って置きたかった。優しさの問題、救済の問題である。これにて、埴谷雄高論20論も、終りを迎えるが、本当は、まだまだ、それこそ永遠に埴谷雄高論を書くことは出来るのだが、とても疲れる埴谷雄高論なので、今回で終わりとする。また、単独で、埴谷雄高について書くことは、未来に有りうると思うが、この、埴谷雄高論集には、今のところ加える予定はない。ここまで読んで下さり、あがとうございました。もしも、一つだけ、最高の埴谷雄高の作品を挙げろと言われたら、何度も紹介して来た、講談社文芸文庫から出ている、『埴谷雄高 文学論集』をお勧めします。それでは、ここで、終りとします。読んで頂き、ありがとうございました。

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