芥川龍之介論ー解体の文学ー

芥川龍之介論ー解体の文学ー

芥川龍之介の小説や評論を読んでいると、制度や倫理や道徳に、羽交い絞めにされていることが、伝わってくる。芥川がそれらを、死によって解体したとは言えまいか。例えば、『玄鶴山房』などは、家制度を解体し、人々を混沌という自由に連れて行ってくれる文章が感得出来る。しかし、形式に縋りついて居た芥川は、ついにその混沌に耐えられなかったのだろう。『歯車』では、広がった自由に、殺される様な感覚が、読んでいて伝わって来る。

初期、中期のころは、古典やキリシタン物に、その小説軸を合わせ、憑依する形で、小説が生み出されていた。芥川は、もともと、そういった方法論で執筆していたのだから、それらの意匠が消え去ると、眼前には死が待って居た、ということになるだろうか。しかし、初期、中期には、名作も多々ある。『戯作三昧』、『地獄変』、『蜘蛛の糸』、『蜜柑』、『南京の基督』、など、読んでいて、内容に耐えるものが沢山ある。しかし、意匠が消滅したら、書くことが出来なかったのだろうか。晩年、話らしい話のない小説、に価値を認めていることからも、意匠の放棄の姿勢が見えるのだ。

芥川龍之介論ー解体の文学ー、と題したが、要は、作品の解体、時代の解体、封建制度の解体、と共に、自己をも解体してしまった、と言えるだろう。その点で、死をもって、全てを解体し、新しい文壇の土壌を創り上げたという功績が認められると思うし、芥川は、時代の先の先までを、見通していたのではないか、と思われる。こう言った経緯から、芥川は、敗北の文学ではなく、勝利の文学と言った方が良い。現に、その名を有した、権威ある賞、芥川龍之介賞、というものが、現在まで残っているではないか、と思い、その点においても、芥川のすごさは、他の小説家と比べて、群を抜いているのである。結句、芥川龍之介論ー解体の文学ー、の解体の先に、新しい文学があったと、信じて止まない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?