譲ることで見える世界
季節の変化が恐ろしいほど早く感じます。一辺倒に仕事に邁進し、注力しすぎているからなのかもしれません。毎朝、見慣れた我が家のドアを開けて外に出るたびに、目に映る世界がめまぐるしく変わり、鼻をかすめていく季節の香りもアップデートされていくことを直に感じます。まるでそれは、超高速回転で万華鏡を回して、覗き込んでいるような感じなのです。
本来は、艶やかで、美しい世界であるのに、恐ろしいスピードで回っていく時、私という人間はもはや姿を隠し、見えるのは周りの雑音と雑多な景色だけのように感じます。
きっと、「忙しい」という日本語にはそんな情景を想像してしまうような隠された意味があるのかもしれません。
私は今、超高速回転のジェットコースターに乗りながら、周りの人々の「これがしたい。」「あれが欲しい。」「やってほしい。」願望を肌で感じています。
わがままと権利の紙一重攻防
私が卒業した高校は、当時ではめずらく校則のない学校でした。その中で先生方から「権利と責任」というお話を聞いたのを今でも覚えています。
権利の主張には責任が伴うこと、また義務と責任ということを痛感した3年間であったと思います。今の自分の素地を築いてくれた高等学校での教育に感謝しています。
わがままと権利は似て非なるものだと思います。しかしながら両者は、いつも紙一重の攻防を繰り広げているのだと、社会に出てから一層感じる場面が多くなりました。
学生時代は、学校や庇護される家庭という小さな領域内で収まっていたものが、社会という大海においては、その操縦権が自分自身の手に託されてしまうからなのかもしれません。転覆事故が起きないようにと、目的地に向かう中で、他者とのせめぎ合いが起きてしまうのだろうか。そんなことを考える今日この頃です。
見え始めた新たな世界とは
基本的に、私はすべての物事に対して「譲る」というスタンスを崩さず、外野からは、一見「あきらめる」姿勢で日常を過ごしてきたように思います。歯切れのよい言葉で言えば「相手に花を持たせる」ということになりますね。しかし、その生活から、見え始めた世界の「端」は、端という言葉通り、両極端なものであるように感じます。
両端の片方(ネガティブな方)を、言語化するならば譲ることで、自分の目的の半分を達成できるかどうかの日々だということです。それを自分の中で良しとすることは、本当の意味で自分自身を納得させる材料となってくれてはいないのでは、と思うこともあります。
調和と平和の違いを考えると
しかしながら、他者との調和、言い換えるとハーモニーを奏でたいなら、やはり譲ることは一番の近道だと思うのです。幼少期から、私は常に端っこにいたものです。習いごとでも任されるのは、打楽器でした。美しい音色を奏でる鍵盤楽器でもなく、弦楽器でもなく、もちろん管楽器でもなく、打楽器なのです。
打楽器は打楽器の役割がある
その打楽器には打楽器なりの役割があるものです。打楽器は、楽曲の雰囲気を作り出し、周りの楽器を巻き込み活気やエネルギーを与える存在でもあるのですから。
わたしは、譲ることで自分だけのリズムとエネルギーを生み出したいのです。人間としての器の大きさの問題から、スムーズに納得が行かないこともまだまだありますが、端にいる自分なりの想いを大切にしながら、これからも譲ることを通して、世界を変えたいと思っているのです。
明日を創るエネルギーを自分の中から
人に親切をすると、幸せホルモンの1つである「オキシトシン」が出ると言われますね。そう言った点からも、譲ることは明日の自分を創るエネルギーになるのでは、という期待を込めて生きていきたいです。
「譲ることで得るものは、与えられるよりも多いかもしれない。」
聖書の中の言葉にも
というものがあるのを思い出しました。たいがい、私が譲るかどうか迷っている物事は、結局は自力ではなく、ただで受けたものであることも多いはずです。だからこそ、ただで与える、つまりそっと手を放すことも理にかなっていると思えることも多いのです。心の成熟とともに、そう思える機会がさらに増えることを祈るばかりです。
今日ももうすでに明日になってしまいましたが、一つ一つ自分の想いをこのnoteに紡いできたことが自分自身の支えになりつつあります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
サポートありがとうございます。感謝です。