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『破戒』(原作:島崎藤村 1962年4月6日公開)を観て

『破戒』

映画化3回、テレビドラマ化3回と多く取り上げられている『破戒』、この映画を観るに当たっては、いつもの通り予備知識なし、写真から想像するにやや重い映画だろうと想像し観ることにした。古い原作のものは、古い映画を観たくなるもので、今回も最新のものではなく、2作目の作品を見ることにした。観終わって、この映画について感想を述べて良いものか、と思うぐらいに複雑な心境にさせられる映画であった。

ストーリーに入るとしよう。主役は、小諸の被差別部落出身で小学校の先生をしている男・瀬川丑松(市川雷蔵)、丑松は、学問の道を父に勧められ、小学校の先生なった、また、父に自分の身分を明かすなという戒めを受け、それを守って日々過ごしていた。一方で、丑松は、部落解放運動のリーダー猪子蓮太郎(三國連太郎)の書物を読み、崇拝し、その姿を学友であり、同じ小学校の先生をしていた土屋(長門裕之)には見せていた。

ある日、丑松は、猪子が旅をしていることを知り、猪子の基に向かい、自分が猪子の思想に傾倒していることを伝える、猪子は、丑松が被部落民だと思い、自分の後継者にならないかと打診をする、しかし、丑松は、実は自分は、部落の人間ではないといい、その話を断わり、その場で別れた。

時が経ち、丑松は、町会議員の立候補をする男・高柳から選挙の協力を依頼される、その際、丑松のことを被部落民であることを知っているようなことをほのめかされる。小諸から汽車で戻ってくるときに同じ汽車に乗り合わせており、丑松を見たというのだ。しかし、丑松は、身に覚えのないことといい、その依頼を断った。断られた高柳は、憤りを感じ、丑松が被部落民であることを町の人々に流していった。
高柳は、選挙資金欲しさに部落民の有力者の娘を妻にしていたのだ。断られた高柳は、憤りを感じ、そして、町に丑松が部落民であることを流していった。

ある雪の夜、猪子が丑松の家に尋ねてくるも、丑松は、猪子のことをお会いしたこともなく、知らないといい、猪子のことを蔑ろにする。猪子は、何かを察し、その場を去って行った。翌日、猪子は、高柳の対立候補の村上の選挙演説会の支援に行く途中で高柳が頼んだ刺客によって殺されてしまった。
高柳は、選挙資金欲しさに部落民の金持の娘を妻にして、そのことを猪子に暴露されることを恐れたのだ。

丑松は、猪子が殺されたことによって、自分が猪子の後継者になる決断を行い、小学校への退職願いをしたため、学校へ行く。そして、父親の戒め破り、子供たちに自分が部落民であることを隠し、先生を行っていたことを詫び、学校を去っていった。

その後、丑松は、猪子の妻が旅に出ることを知り、猪子の妻を訪ね、お供させていただくことを申し出る、一度は断られるも、最終的には許可を得て二人で旅立つ。

荷物を荷車に載せて、駅に向かっている最中に子供たちが追いかけてきて、「先生いつか戻ってきてね」というシーンで映画は終わる。冒頭の写真は、その旅立ちのシーンで、猪子の妻が手に持っているのが猪子のお骨である。

この映画のメッセージは、最後に丑松が猪子の妻を訪ねたときに猪子の妻が発した言葉に凝縮されている。猪子の妻は、丑松に向かって、「人があなたのことを部落民だと噂するのであれば、させておきなさい、噂だけのこと、人があなたに面と向かって、部落民かと聞かれたら、そうですと返事をしなさい、嘘つくにはあたりません、それだけのこと」「人間はみな平等だと憲法にもあるそうです、主人も部落民も普通の人間だ、差別するのは間違っていると言ってました、それならば、なぜ、間違った方の尺に合わせて生活するのです、普通の人間だとおもうのであれば、普通の人間と同じようにすればいいじゃありませんか」「歴史は民衆によって変わるのではなく、傑出した個人によって変わるのだと申します、私にはそうは思えないのです、いつかこういうことが問題にならぬ世の中が来ると信じているのです、主人のような実践運動家が次から次に出てくるからそうなるのではなく、いつか知らぬ間にそうなると信じているのです」「もちろん敵対する人もいるでしょう、でも、社会に出れば、誰しも同じことではないでしょうか」「普通の人間だとおっしゃるなら、つらいことも普通通りに受け取っていただきたい」「生きると言うことは苦しいということに観念していただきたい、部落民ということをいいわけにしないで」と言った。

この内容は、自分達が普通だと思うのであれば、堂々と生きて欲しい、不遇なことがあっても、それはみな同じであるという、部落民に対するメッセージが強く出ている。それはなぜか、恐らく、1961年に池田勇人総理大臣が同和対策審議会に対して「同和地区に関する社会的及び経済的諸. 問題を解決するための基本的方策」について諮問し、国が問題を解決しようと取り組んでいるので、あとは、本人たちに普通にふるまって欲しいという願いがあったのではないだろうか。

どの国であっても、日本のどの地域であっても、社会のいたるところに、差別なり、いじめ的なことは多かれ、少なかれあるのは事実で、国レベルの話になると、歴史が絡むため、簡単に解決できるものではなし、人が生きて行く限り、なくならないものかもしれない。しかしながら、人を動物としてみれば、ホモサピエンスしか地球上には存在しておらず、みな同じである。今の時代では、DNAで祖先を遡ることが出来るため、今お隣にいる人がもしかしたら遠縁なんてことが普通にあるのだろう。ならば、ちょっと腕が当たったぐらいで不愉快に感じる必要もなかろう。それぐらいのスケール感で捉えれば、人それぞれ考え方の違いはあれど、人の差別とか、区別とか、敵だとか味方だとか、感じることなく、穏やかに人に接することが出来るのではなかろうか。

最後に『破戒』は2022年に再々映画化がされている(見ていないけど)、HPには多くの感想が書き込まれており、なぜ、『今』、ということに関する考察もあったりする。確かになぜ『今』、三度目、なのと私も思った。100年前は、差別や嫌がらせが直接的に接点を持った形で行われていたのだろうが、今は、見たことも、話したこともない人たちに対して、みんなが見れるインターネットを通して、自分と違うアイデンティティを持った人に対して差別的な発言、誹謗、中傷が投げつけられる時代で、もしかしたら、100年前よりひどい環境かも知れない。そう思うと人間の本性を今一度抉り出し、差別する側に対しても差別される側に対しても何かこの映画で感じて欲しい、考えて欲しいと思ったのではなかろうか。そうであったとするなら、1962年の作品ですけど、こうやって考える機会を頂ております。

では、また。

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