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幕末の気になる人物を、自分なりに書き出してみたい 〜塚原重五郎昌義〜

 小説を書こうと思って調べた、幕末の人々。主に江戸幕府側である。史実を下地に小説を書きたいと思ったものの、知らないことだらけで調べ物が止まらない。とりあえず、気になる人物について自分なりに書き出してみた。

 いちばん気になっている人物は、知る人ぞ知る「塚原重五郎昌義」である。

「はぁ? その人って何者??」というリアクションは想像に難くない。私も、調べ物をしていて知ることになった人物だから。

 塚原は旗本で、学問所(昌平黌、昌平坂学問所)で学んだ。その後、外国奉行の下で調役となり、安政7年・万延元年(1860)に幕府が初めて公式に外国へ派遣した遣米使節団の一員としてハワイ王国、アメリカ合衆国に渡った。その後、使節団はパナマ、ポルト・グランデ(アフリカのポルトガル領。現在のカーボ・ベルデ)、ロアンダ(アフリカのポルトガル領。現在のアンゴラ)、バタビア(オランダ領。現在のインドネシア)、香港を経由して江戸に帰国。使節団が日本を離れている間に井伊直弼が暗殺されて、幕府は方針転換していた。攘夷の嵐が吹き荒れていたのだ。

 ちなみに、この使節団がアメリカに渡るとき、護衛で派遣されたのは、勝麟太郎(海舟)が艦長だった咸臨丸。この艦には、福沢諭吉も乗っていた。咸臨丸は、アメリカから日本に折り返しているので、世界一周はしていない。

 塚原について、続ける。

 帰国した翌年。塚原は御徒頭となり、仕事の合間に開成所で物産学を学んだ。その後は講武所の頭取、歩兵頭格、外国奉行兼勘定奉行と、出世を続けた。ついに若年寄並へと上り詰めた頃、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発。塚原は、旧幕軍の副総裁となったが、新政府軍に負けを喫する。

 何とか江戸に戻ったものの、十五代将軍だった徳川慶喜から蟄居を命じられる。要するに、戦犯とされて、家から出ることができなくなった。

 しかし、塚原は家を抜け出して横浜に赴き、知り合いのツテでアメリカに亡命。明治5年(1872)までアメリカで暮らしていた。日本に帰国したのちは、罪を許されて改名。「武田昌次」と名乗り、明治政府に仕えた。

 数奇な運命ですな。

 塚原が「知る人ぞ知る」なのは、アメリカ亡命で足跡が途切れているためだろう。知名度が低いのは、そればかりではないかもしれないが……。

 「厄介」とか「年齢について」など、いろいろ面白いエピソードもあるのだが、またの機会に書くことにしよう。



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