一 太陽が落ち、ビルの背後の残光が、空の最後の青と層になり、夕暮れの街に虹を描いた。薄暮に架かった虹に通行人は足を止めはしなかったが、鈴木だけは終末の美しさを見ていた。—— 眠ったのは二時間ほどだろうか。カーテンを開き窓外の太陽を浴びた。今日も美しい。 この習慣が始まったのは、彼が「終わり」を宣告されてからである。 証券会社に勤める鈴木は、桜舞う春の健康診断でその宣告を受け、それからというもの、閉口気味だった彼は饒舌になり、いきいきとし、憂鬱だった
乾いた風が吹き、砂が佐藤の頬を打った。夢にまで見た砂の上に立つそれは、特別ななにかではなく、まるで、水平線を眺めながら無意識にその手が砂の山を創ったような、それぐらいのもののように佐藤には思われた。 佐藤は、人類にとっても、彼にとっても長年の謎であるピラミッドについて、ついにこの目で確かめる決心をし、ここへ来た。 大学時代の友人たちは、大学卒業後、彼が何度もエジプトへ足を運び、それを見たことがあると信じた。たしかに、彼の口調からすれば、彼は確かにそれを何度も見ている
雲ひとつない朝がこの島に似合いすぎるのは、その青と亜熱帯の緑がどこまでも広がるからで、この朝の色彩が、佑介にとっては押しつけがましく、ずっと朝が憂鬱なのは、ここで育ったせいだと信じている。蝉が鳴き、風が遠くから潮の香りを運んだ。 母のかしましい声が朝の憂鬱に拍車をかける。見かねた母に布団を剥がれて、佑介はようやく起きた。目覚めたとは言えない頭で、ぼんやりと歯を磨く。母が焼いてあったトーストを乾いた口に入れ、テレビから流れる「今日も元気にいってらっしゃい」という言葉をも、牛
鏡に映る身体、あまりにも女を模したこの身体。……、強烈に何かを主張すると、内側になにかが孕むように、私はなにかを孕んでいる。……ひょっとして、わたしは男ではないかしら。 この胸がなかったころ、わたしは女でも男でもなかった。鳥だったのだ。けれど、わたしの背中に生えていた翼は、この乳房によって奪われた。 翼のない鳥に向けられる視線、……この小説のような身体のせいで、わたしには理性が育まれた。あまりにも感情的に見えるこの乳房を勘違いしないでもらいたい。これはわたしの理性の大き
梅雨の雨が続いていたが、今日は珍しく晴れた。 窓外の水平線に微笑む彼はこのごろ、寝ても覚めても同じような、夢も現もないような、そういう存在感覚なのである。 『なかったはずの死が現実になるとき、あったはずの現実は夢になる』……。 そして、彼には過去と未来は淡くある。過去は美しい思い出と、後悔や懺悔のためにあり、そして、未来にはほのかな期待と警戒があって、その未来も過去になり、その循環の中に死があるなら、彼にとって、色濃くあるのは今日だった。 太陽が出てきた。前日の霧
私はついに健康を手にした! 過剰なエネルギーで恋をした、あの頃のわたしを笑うことさえできる。『気の毒に、不健康ね』と。…… 魚が自分が泳ぐ姿が見えないように、渦中にいては見ることのできない、それをわたしはいま見ることができる。 そして、いま水槽の中の魚を眺め、こう思う。……『すべては意のままだ。いま私は、結婚詐欺師にもなれるだろう。ああ、健康とはなんて退屈なんだ』 わたしが水の中で溺れることはもうない。……
陽子は十四歳のときに両親を亡くしていた。弟妹がおり、長女であった為、わずか十四にして母になったのである。児童施設へ入る話もあったが、陽子は強い意志で断った。弟と妹は高校まで進学することができた。 妹は毎日のように出てくるポーク(内地でいうところのスパム)、の缶詰に飽きてもいたし、弟は穴のあいたバスケットシューズを恥ずかしがってもいたが、大人になっても、妹はいまだにポークの缶詰を陽子に送って欲しいと懇願し、弟は姉には頭が上がらないと言った。 ——晴天だったはずの空が陰
男は言った。 「生活があるのは俺のおかげだ。そして、俺には肉体的強さもある」 女は笑顔でありがとうと言って、心の中で呟いた。 『私には、仕事も肉体的強さもありません。けれど、あなたは子のためには死ねるでしょうか? 疑わしい。私には、ときどきあなたが女に見えてしまうのです。そして、私がどんどん男になっていくような、……表面が真実を示さない世界……いえ、女は最初からその世界の住人だったのです。女はずっと昔から、それを見てきました。女は海です。浅瀬の美しい青は、沖の黒を示してい
彼は、学校までの道を誰よりも速く走った。穏やかな彼の妹は走ることをせず、毎日学校まで歩いた。 彼らは同じ道を通っていたけれども、彼らの目に見える景色はまったく違っていた。 彼には自分の速度しか見えず、妹には路傍に咲いた花や、自分が通るとき、ひょこっと顔を出す犬や、さとうきびが風に触れ合う音まで聴いた。 そんな、のろまな妹に彼は苛立ち、彼女を叱った。 「おい、もっと早く歩けよ。そんなんでは学校に遅れるぞ」 彼女が学校に遅れたことはない。妹は最初から走ろうとも思っていな
「いつまでやってるんだよ」 時間に遅れているわけではない。せっかちな彼が、自分が先に用意ができたからといって、そう言うのである。 「もう少し待ってよ、これじゃ出掛けられないわ」 男は呆れたように、車で待つと言って先に出たが、口紅ひとつで世界が変わることを知っている女は、気に留めず化粧を続けた。 「そのまま」ではいけないのである。あるものを隠し、ないものを浮き出たせ、わたしの心と身体が一致する、「ちょうど」を化粧で創らなければならないのだ。「素顔が好きだ」、という彼の言葉は
彼女は自分にはない、あの子を羨ましく思っていた。あの子の、誰の目をも惹きつける美貌を私もいつか手に入れたい。叶わない夢などないはずだから。…… そして、大人になった彼女はついに、あの頃憧れた美貌を手に入れた。彼女の美貌に誰もが振り返ったし、その赤いヒールの高らかな音で、そこに彼女が来たことがわかった。あの頃の自分がそうしたように、彼女は憧れの眼差しで見られた。 しかし、彼女は、ようやく手にしたその美貌を心から喜んでいるわけではなかった。それは、憧れが持つ性質が彼女をそう
「拓実、お前の時代は終わったんだよ。素直に観念しろよ」 野蛮な拓実の冗談を鼻で笑いながら、貴史はそう言った。いま、拓実は貴史につけられた『オワコン』という名に甘んじている。 幼馴染の二人は対照的で、拓実を創ったのは、幼いころにもてはやされた経験と、そのときに見聴きした野蛮なものであり、貴史を創ったのは、教科書と、自分自身への劣等感だった。 彼らが幼いときには、野蛮が表面にあって、生真面目が本質として隠れていたが、いま野蛮は封印され、生真面目の時代、すなわち、貴史の時代で
私には誰よりもすべてがはっきりと見えていた。誰よりも見えることが私の誇りであり、私の高速の世界を見るものは他にないとさえ自負していた。しかし、私はいま、新聞の字さえ見れなくなったのである。 そして、目が悪くなり、見え始めたものがある。 長年、目の悪かった妻は、誰にも等分に、わかりやすい敬意を持っていた。それはまるで、シーソーがまっすぐに止まった世界。彼女は花を愛していた。 会社までの、車で走っていたときには見えなかったもの、こんなところに公園があったのか、この木はこん
「あなた、どこかで会ったような気がするわね」 二十七歳の淳一が、越してきたマンションの隣の部屋に挨拶をしたとき、紫に染めた髪が鮮やかな老婦人は、そう言った。 それからというもの、頻繁に淳一の部屋のインターフォンが鳴った。 「遅くにごめんなさいね、夕飯は食べてしまったかしら? もしよかったらこれどうぞ。ひとりにはちょっと多すぎてね、つい昔のくせで作り過ぎてしまうわ。お口に合うかどうかわかりませんけども、あなたはわたしの孫みたいなものだから、老婆心だと思って食べてちょうだい」
目が覚めると、僕は水の中で呼吸をしていた。身に着けるものはない。そう、僕は魚になったのだ。 サンゴや色とりどりの同胞たちは、美しかった。 澄んだ水から見上げれば、こちらに似た色の、また美しい別の世界があった。そう、世界は逆さまだった。こちらからは、空が海だった。 僕たちの中には、海に引きずり出される者もいたから、僕たちも復讐を企てていた。人間たちが、真夏の空を泳いでいる。 人間よりも大きな魚に頼んで、空に引きずり込んでやった。そして、みんなで食べた。 そのとき、空
チェット・ベイカーが流れる、零時をまわったこの店に他の客はいない。 真知子は泣くときでさえ、美しかった。彼女は『見られる』ことを知っていたから、こんなときにも化粧が崩れることはなかった。三杯目のウイスキーを置いたとき、頬を一条の涙が伝った。 涙に気づいた、それまで黙ってグラスを磨いていたカウンター越しの店主が、「どうされました?」と訊くので、真知子は涙の理由を打ち明けた。すると、男は、 「わかります、僕にも同じ経験がありますから。けれど、それはきっとあなたの糧になって、