映画「アイロボット」を観て(改訂版)

ロボットが家庭に入り込み、家事をこなし、人間の世話をしてくれる。それは便利な世の中だ。しかしそれはロボットをあくまで機械や道具として見ているからではないだろうか。映画の中で、サニーという新型ロボットは、開発者から感情を教わったという。サニーは警察署の取調室で机を叩いて怒りを露わにした。普通ならここで、おいおい、ロボットがそんなに感情的になってどうすんの?という総ツッコミがあることだろう。すぐに怒るだなんて、頭が悪い人の一丁目一番地じゃないかって。しかしこの映画では敢えて冒頭ともいえるこのタイミングで観客にロボットに感情があることを伝えたかったのだろう。ま、そこはちょっと横に置いておくにしても、便利ではあるが、中途半端に感情を注入されるのは迷惑でしかない。

たとえば喜怒哀楽、そうした感情を注入したとして、おそらくプログラミング的には、○○の場合には喜び、○○の場合には悲しむという情報がインプットされているのだろう。しかし人間というものはそんなに簡単ではなく、実に厄介だ。口から発した言葉と心の中で思っていることは必ずしも一致しない。いや、一致しないことの方が多いだろう。そうした相反する感情をロボットが認識するのは難しく、言語だけではない非言語の部分をロボットが感じるのは相当難しい話と思える。

また、人間には思いやりという感情があるが、これは元々全ての人間に備わっているものではないと考える。論語の中で孔子は、人が生きていく上で一番大切なものは「思いやり」と言っていたが、その一番大切なものをロボットが手に入れるなんて100年早いわ。そう。私も映画の主人公スプーナーと同じく、アンチロボット派である。人は生きていく過程で、傷ついて、また誰かを傷つける。そうした社会の中で揉まれて人の痛みや弱みが本当の意味でわかるようになり、人にやさしくできるようになるのだ。

ロボットはそのプロセスを踏んでおらず、単なるプログラミングに過ぎない。

果たして、ロボットに愚痴を言う人間の気持ちがわかるだろうか。あいつ許せない、ぶっ殺してやる、と管を巻いて出てきた感情が愚痴なのか指示なのか、ロボットに区別ができるだろうか。

豊臣秀吉が石田三成と出会ったときのお茶の話で、秀吉が鷹狩り途中で立ち寄った寺で、三成は、一杯目はぬるくして、二杯目はやや熱く、三杯目は熱く茶を出したという。そんな芸当がロボットにできるだろうか。臨機応変な対応は難しい。

あるいは、ロボットには、ただ聞くということができるだろうか。ただ聞くことが人の痛みを和らげるということが理解できるだろうか。ただ隣にいるということが非効率的でも、その人にとって忘れられないほど意味のある経験になるということが理解できるだろうか。

我々人間は意志を持ち、いや、意志を持たずに一日中ダラダラと過ごすときもあり、意志を持って寝食忘れて没頭することもある。日々選択権を持っているといえる。ロボットに自発的な意思はなく、プログラム以外の目的はなく、選択権はない。

ロボットを無理やり人間に似せる必要はない。ロボットと人間の違いを認識し、共存していけばいい。そんなことを考えさせられた。

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