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高橋紹運激闘の岩屋城、古代山城の大野城などに行ってきました(前編)

週中に急に福岡行きがきまり、土曜日は古代山城の大野城、高橋紹運激闘の地・岩屋城などに寄ってから帰ってきました。

まずは太宰府天満宮に行きました。実は初めて💦修学旅行生や外国人観光客さんなどたくさんの人で溢れかえっています。参道も見てるだけで楽しい。


楼門‥道真公の曽孫である菅原輔正によって造営され、幾度かの焼失の後、慶長3年に筑前国の管理者としてこの地に赴任していた石田三成が再建。現在の楼門は大正3年に建てられたものだそうです。

重要文化財の御本殿が124年ぶりに(令和の大改修)をするに伴って、特別な仮殿が前に建てられています。

仮殿‥なんか雰囲気があって素敵。巫女さんとか神主さん?がたくさんおられた‥


太宰府天満宮から北西に林道を登っていきます。
半分くらい登ったところで、岩屋城の登城口がありました。
岩屋城は、豊後・大友の家臣(高橋紹運)がわずか763名で、薩摩の島津忠長率いる約3万(5万とも💦)の軍勢に対し2週間にわたり互角以上に戦い、最後は全員壮絶な討死をした事で有名な場所です。

すごいインパクトのある城趾碑が本丸にあります。


この犠牲があり、立花山城にいる実の息子(立花宗茂)を守る事ができ、島津は九州制覇を断念することにも。
この763名っていう細かさが妙にリアルです。そして本丸には(嗚呼壮烈岩屋城)と刻まれた城趾碑があり、私がこれまで訪れたお城の城趾碑の中で一番インパクトありました。本丸からは南方面がよく見渡せ、太宰府政庁跡や、水城跡などがよく望めます。

本丸からの眺望。島津勢が来るのが見えたことでしょう。


戦場となった城址だけれども、お城はとても小さく、防御する堀切などの遺構も少なかったです。

ニノ丸。奥に高橋紹運と家臣達のお墓があります。


高橋紹運の名采配と全員が決死兵だったからこそなのかもしれないけど、二週間も寡兵でよく凌いだなあ、と思いました。
紹運以下岩屋城の守兵は763名全員討ち死または自害しましたが、島津軍の死者も4500名に上ったとされます。

堀切、竪堀などもいくつかあるけれど、深いものではなかったです。

高橋紹運の辞世の句は
⚪︎流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水
⚪︎屍をば岩屋の苔に埋てぞ 雲井の空に名を留むべき
と二つ候補があるみたいです‥
上の句は
時代が経ってしまったら、自分の名も岩屋城の苔の下の水のように埋もれてしまうだろう、
下の句は
屍は岩屋城の苔に埋もれてしまっても、名は空の高いところ残そう
ってかんじでしょうか。心境は計り知れませんが、名将として名を残した彼だから、現実は下の句の方があってるかな。

さてこの後は、林道をさらに登り、古代山城の大野城へいきます。後編へ続きます。

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