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天正伊賀の乱の舞台・伊賀丸山城に行ってきました

先日、伊賀鉄道に乗って伊賀丸山城に行ってきました。

伊賀丸山城は第一次天正伊賀の乱の舞台。伊勢の実権を握った北畠(織田)信雄が伊賀侵攻のため滝川雄利に修築させた城です。

本丸天守台にたつ城趾碑。立派です。

行きはピンクのクノイチが描かれた電車に乗ったのですが、座って上の棚を見上げると(誰か、ピンクのジャンパー忘れてはるんかな?💦)‥てよく見るとピンクのクノイチが真上にいました。ちなみに帰りは青い忍者列車で、青いクノイチが網棚に控えていました。帰りの電車は手すりも手裏剣型でした。

降りる前にクノイチ、撮影。

行く前に縄張り図を見ていて(大規模やし、高い土塁囲みの方形なものが多い伊賀のお城の中では、異質な感じの縄張りやな〜)と感じました。それもそのはず?北畠具教が築城途中だった隠居城がベースになっています。

北畠具教は北畠(織田)信雄に実権を譲り、自身は本領の伊勢を去って隠居する為に伊賀の丸山城を築城していましたが、信長によって差し向けられた刺客に命を奪われています。
伊賀領有を目指した信雄は、丸山城を家臣・滝川雄利に再築城させました。

伊賀衆にとっては(天守台のある立派なお城が織田方によって築城されてヤバい!)妨害目的だったんでしょう、伊賀衆からの攻撃を受けて丸山城は完成途中に落城。北畠(織田)勢は伊勢へ逃げ帰ってしまいます。

翌年信雄は、北畠勢単独で伊賀へと侵攻します。三方向から峠越えで攻め込んだ兵は1万余りでした。伊賀衆は約1,500の寡兵ながら、奇襲攻撃を仕掛け、北畠勢はふたたび伊勢へと逃げ帰る事になったそうです。(第一次天正伊賀の乱)
第二次天正伊賀の乱については、近いうちにきっと比自山城に行こうと思うので、その時に‥。

この丸山城も北畠勢が伊賀衆を制圧して後は、家臣・滝川雄利が城主となっています。

南側登城口近くの小曲輪にある、滝川雄利顕彰碑

アクセスは城山の南、北、西の三ヶ所から行けるようですが、私は南から登城しました。

城山の周りにチラホラ見られる道標。忍者が乗ってます。

城域は広く大規模で、やっぱり織田!感のある大きい天守台があり、まず見所だとおもいます。天守台には南北に付櫓台もあった様です。天守台は石垣造りだったそうですが、前述の伊賀鉄道が敷かれる際に石材として使われたのだそうです。

南側から見た天守台。


冬真っ只中でも、かなり本丸も薮に覆われています。
本丸は東側の虎口が厳重で二重の横堀が南側に控えています。

本丸東虎口南側にある二重横堀の一本


また本丸の北側と北曲輪群との間は堀切に土橋が架かっていますし、北曲輪群の虎口は喰い違い虎口になっています。

北曲輪群の喰い違い虎口

西曲輪群は古墳利用ですが、櫓台跡の凸がたくさんあります。たくさんの櫓から周囲を見張っていたのでしょうか。 

櫓台跡なのか凸の多い西曲輪群


城山は藪で隅々までは散策できなくとも、全域が曲輪化されている様な感じが垣間見えます。

西曲輪群南側下に広がる大きな削平地。家臣屋敷地とかかな?

また城山だけじゃなく周囲の独立丘陵も出曲輪になっていて、削平地や土塁、物見台が見れるところもあります。

滝川雄利堡塞北側土塁

天守台の南側付櫓台には両軍の死者を弔う宝篋印塔があります。記された死者数に驚いてしまいました。激戦だったのですね。

伊賀丸山城、ざっくり言ってしまうと(北畠氏の築城途中)➕(滝川氏の築城途中の落城)の影響なのか、巨大なお城なのに防御が手薄で、中途半端な感じがしました。その頃の落ち着かない情勢が現れている感じ(個人の感想💦)

本丸北側下の横堀。浅いなあ〜。


でも、やたらめったら櫓台跡があるから、神出鬼没な伊賀衆のことをめっちゃ警戒してるんかな、って感じがしました。
伊賀の城館、今後もちょこちょこ尋ねていきたいと思います。

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