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津市白山町のお城を巡ってきました。

先週は三重県津市白山町のお城、稲垣城、上ノ村城、川口城などを巡ってきました☺️
前に甲賀中惣遺跡群のお城めぐりをしました。戦国時代に甲賀郡一帯に形成された自治・水平的連合の土豪・地侍といった小領主のお城をめぐってきました。主郭を囲む土塁が高く、見応えがありました。

そして、この津市白山町の辺りも、地侍の一揆的結合の小倭衆が北畠氏に仕え、勢力を持って築いたお城が点在する地域のようです。
四方囲みの土塁は甲賀には及ばすだけど高く、(馬出し)っぽい郭がついた虎口があり、小ぶりながら私には期待以上のお城が多かったです☺️

稲垣城‥大迫力の高土塁に馬出し状の郭がくっついています。

稲垣城主郭南側の土塁と横堀

上ノ村城‥小倭衆の結束の場となっていた寺の奥にあるお城です。

勅使門まであるお寺の成願寺


上ノ村城櫓台跡背後の堀切。キレッキレ。

そして川口城‥医王寺の境内及び周辺となります。ここは城趾でもあるけれど、川口頓宮跡の最有力候補地であるそうです。

川口城本堂のある郭東の土塁

740年聖武天皇は(我思うところあって東国に行こうと思う)という詔を出し、東国行幸へと出発しました。
これ以前に、天然痘が大流行し、藤原四子(藤原不比等の子、武智麻呂:南家、房前:北家、宇合:式家、麻呂:京家)が四人とも亡くなり、中納言の多治比縣守も亡くなっています。結果、大蔵卿であった鈴鹿王が知太政官事に、橘諸兄は中納言を経ずに大納言に任じられ、藤原氏からは武智麻呂の長子豊成がわずかに参議に列するのみとなりました。
橘諸兄政権下では、唐より帰国した吉備真備や僧玄昉が重用されています。そして、この人事に不満を持って、太宰府に左遷されていた藤原広嗣の乱が起こっています。

人々からは(九州で 勃発した藤原広嗣の乱に恐れおののいた天皇が、乱を避けるために東へ逃げたのだ)と評されてしまいました。

10月 29日に出発して 5日目に広嗣逮捕の報を、その後処刑の報を、ともに川口の頓宮において受けているとのことです。
その後赤坂頓宮からは壬申の乱の行軍をなぞった行幸をされているとのことです。大海人皇子は祖父にあたりますね。

川口頓宮跡の石碑


この辺りはソバの産地なんでしょうか?走って移動しているとソバ畑が広がりステキでした。麺類ではソバ派☺️

しっかし、今年はカメムシ、多いですね〜💦
移動中(なんか私、くさっ!)と思ったらカメムシが帽子の上にいました😭知り合いにカメムシ研究の人がいますが、匂いは油性だから、水洗いより、一時的にはハンドクリーム的なものを塗ってテッシュで拭く方が無くなるようです👍でもやっぱり残り香がずーっとありました😅

帰りの駅近くで時間潰しに少しお散歩してるとルーブル彫刻美術館というのがありました。入館する時間はなかったけど😅
奥に(カエルの庭)があるというので行ってみるとこんなんでした↓☺️


リアルなカエルがいる庭を期待してました🐸

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