北畠具教最期の地三瀬館などに行ってきました。
今週は雨続きと思っていましたが、東海地方はわりと曇天です。
平日休みに雨が降ったらプールで沢山泳いでから、昼寝しようと楽しみにしているのに、曇りだと出かけてしまいます💦
折りを見て北畠氏のお城をちょこちょこ巡っていますが、昨日は北畠具教公隠棲地で三瀬の変の舞台・三瀬館や下三瀬城に行ってきました。三重県大台町です。
織田信長の伊勢侵攻により、伊勢国司の北畠具教、具房親子は、大河内城に籠城し織田軍を迎え撃ちます。織田軍も攻めあぐんだ為、信長の次男である茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠具房の養子とすることで和睦を結びました。
和睦後、具教が隠棲・再起を願った地が三瀬館です。
和睦と言う形の織田家による北畠氏乗っ取りなので、具教も武田信玄などど密通したともされ、具教や一族暗殺の三瀬の変に至ります。
三瀬館は数段の削平地で土塁などはないですが、三方を山と川で囲まれた天然の要害という感じです。青もみじがキレイでした。
館跡の周りの小山は山頂が削平されて物見台になっているらしく、その一つの茶臼山物見台へも登りました。
塚原卜伝に剣術を学び、奥義である一の太刀を伝授されたほどの剣豪でもあった具教公の最期、一説には織田の刺客相手に19人を斬り殺し、100人に手傷を負わせたともいいます。私以外に誰もおらず、風雅さと物悲しさを感じます。秋はステキだろうなあ。
下三瀬城は北畠氏被官・三瀬氏の代々の居城であったされ、高い土塁には少し石積みも残っていて、立派です。宮川とその支流に囲まれた三方向が崖っぷちの、要害の地にあるお城でした。
三瀬館に隠棲する具教さんにとって下三瀬城は心強いお城であったと思うけど、三瀬の変の際の城主は内応して暗殺に加わった北畠家臣という説もあるようです。
この三瀬氏の収入源となっていた熊野古道伊勢路の三瀬の渡しからは下三瀬城の要害っぷりがよくわかります。
北畠氏関連の史跡は、秋になったら五箇篠山
城と笠木館に行こうと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?