倒れた女
私は集団生活をしている。同年代の人が多い。そして私は忙しくてたまらない。坂の途中に点在する建物の間を行き来しながら、ようやくの休憩に入れる準備をいそいそと始めていた。
私の小部屋がある坂の上の建物へ行こうとしたら、探していたものが、目と鼻の先に転がっているのに気づいた。靴に取り付けて重心の反復変化を使い、楽に移動できる板だ。さっそく左足の靴にはめてみた。靴底に当ててバネを倒せばいいのだ。長さは30センチに満たない板である。と、そのとき、私のすぐ近くに女の人が倒れているのが目に入った。
旅行者のようないでたちだ。旅行者といっても若いヒッチハイカーといった身なりである。靴が先か、女が先か。私はまず靴に板を取り付けるほうを先にしようとした。がすぐに、否、女が先だと考えを変えた。
取り付けかけた靴の板を外して、女性の所へ歩み寄っていった。女は意識がないようだ。施設の仲間の姿が遠くに見えたので、私は声を上げた。急ぎ足でやってきた若い男と二人で、坂の上に建つ私の施設に運び入れた。
部屋の中二階の、ロフトと皆が呼んでいる空間にそっと寝かせた。ここで休んでもらっているうちに回復するだろうと思った。そして私は外に出た。
夕方近くまで施設の仕事を精いっぱいこなして、そろそろ帰ろうかと思ったとき、にわかにあの女のことが思い出され、不安になった。
ロフトには大事なものが置いてあるのだ。預金通帳、印鑑やら、昨年通りすがりの人にもらった隕石のかけら、いくばくかの現金も机の引き出しに入っている。あの女はまだいるかしら。走って走って戻り着いた。女はまだ横たわったままだったが、声をかけると弱々しく指先が動いた。そのときふいに、施設に古くからいる男が部屋に入ってきた。私の横に立ち、女を静かに見下ろした。
「この女性はあらい族だな。ヒッピーの……。服のポケットの刺繍でわかるよ。昔流行ったヒッピーのあらい族、知ってる? 俺だってずっと前に、その流れのような一派にいたから、知ってるんだよ」
男が私にしゃべった。続けて、ヒッピーの系譜をたどるような話を解説者ふうに語った。自分の所属していた集団の内実にも触れた。いいだけ話し終えると、私は男に共感というか、好意というか、頼もしい近しさを覚えた。男の脇に立っている自分の体から、男に吸着していってしまうような磁気が湧いてくるのを感じた。
男はズボンのポケットに手を入れ、何かを取り出した。そのとき私は、男の考えていることがまったく読めなかった。
男は取り出したものを右手に持って、左手の手首に〝それ〟を当てた。〝それ〟というのはカッターだった。手首を荒っぽくカッターで数回引いた。鮮血があふれ出た。私は目を背けたかったが、耐えて見ていた。男は自分の血を右手指ですくい取ると、眠っているかのような女の腕先になすりつけた。
この女はけがをしているんだ。けがが災いして倒れてしまったのだ、と男は言った。傷口に自分の血を塗れば、傷がふさがってくると加えて言った。私はうなずいて男の行為をそばで見守った。同時に男に頼もしい力があるのをひしひしと感じた。
いつ、女がしっかりと意識を回復するかはわからない。が、私はもうじきに、女が目を覚ますことを予感した。男は行ってしまった。最前の男の行為を思い起こすと、あのときは頼もしさだけで、なんの疑いも抱かなかったのに、私の胸の内には、もはや男への共感や信頼や磁気といったものは跡形もなく消滅していた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?