見出し画像

アナログの可能性

アナログに注目している。アナログの定義が難しいけど、デジタルのように容量を圧縮するとか、時間を短縮するということができないものとか、一定の規則性に当てはめては対応できないものなどをアナログとイメージしている。アナログには、途中経過の時間を省略することができない、始点から終点までのプロセスが存在すると思う。

仕事には多くのアナログが潜んでいると思う。事務作業など単調な仕事は、効率化を追求できるデジタル化が大いに歓迎される。効率化で空いた時間をほかのやりたいことに回すのことができるし、それはデジタル化の恩恵といえる。アナログは一定の割合、減少していると思う。

一方で、週末の市民農園での野菜の収穫や、美術作品の制作、文章の執筆などは、そのプロセス自体を楽しむもので、時間がかかる手続きを省きたいとは考えないと思う。あえて手を使ってものをつくるとき、それ省いて完成を急いだほうがいいかというと、そうともいえない。そういう点で、残り続けるアナログ体験ともいえると思う。

プロセスを楽しむ行為は、最近では大切にされていると思う。例えば、レコードの復活。レコードの針を垂らす、そして聴きたい曲まで早送りをすることなく、たどりつくまでレコードが回るのをゆっくり待つという時間の使い方。プロセスを効率化できるはずの行為が、今あえて見直され、アナログ回帰している。

「街に出回るアナログ」をほかにも探してみた。例えば、カフェでの一杯のコーヒー、バーでの一杯、銭湯につかっている時間など。1分つかれば30分の入浴効果が得られる風呂や、1滴で1杯分の酔いがえられる酒などのニーズは、そこまでないのでは、と思うので、こういう時間は効率化されることはないのではないかと思う。

私たちは、デジタル化で効率化、省力化された時間やリソースを「デジタル化されずに残ったアナログ時間」に厚みを持たせるために使っていると思う。文章も一杯のコーヒーとの向き合うゆっくりとした時間で思いつく場合がしばしばある。なので、アナログな時間を確保して、アイデアが出てくるのをじっくり待ってみたい。数字で割り切れない、アナログの無限の可能性を信じたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?