見出し画像

初めての『ロミオとジュリエット』星組さんB日程

『ロミオとジュリエット』の宝塚歌劇団の舞台を初めて観ました。2021年3月22日、星組さんのB日程です。

『ロミオとジュリエット』は映画を観たりしてお話の結末は知っています。舞台版は初めて、宝塚歌劇版は勿論初めてです。結末を知ってるのに、とてつもない衝撃で言葉も出ませんでした。棘みたいに刺さりました。

全てを消化するのに時間がかかりました。

舞台を観て、共に生きて、共に死んだようなショックを受けたのです。2人の死を目撃する感覚に襲われました。むざむざとこのふたりを見殺しにしてしまった罪悪感。ぞっとしました。一体なにを観ているんだという感じです。それほど、すさまじい舞台だったのです。

画像1

1. ロミオ、ジュリエット、〈死〉

ジュリエット
舞空瞳さんのジュリエットは聡明で、自立した意志があってすてきです。ジュリエットがロミオを見つめるまなざしは、異性への関心というよりは、きちんと話ができる相手をやっと見つけたような感じ。探していた自分の魂の片割れを見つけたような、本当に居心地良く幸せに生きられる場所をみつけたような、ロミオという「新しい世界」を発見したようでした。溌剌として生命力にあふれて、自分の喜びに正直で、地に足がついて現実的で、力強いジュリエットとして生きる舞空さんがとても好きです。

ロミオ
礼真琴さんのロミオはたんぽぽの綿毛が似合う、優しそうで幼げで純真な表情がとてもかわいいです。でもロミオには〈死〉を寄り添わせる別の顔があるのです。とても複雑な内面を抱えた葛藤を礼真琴さんがしなやかな身体表現と美しい歌声で体現してました。


愛月ひかるさんの〈死〉がこわい。階段の手すりにもたれているときに右手のひとさし指と中指を「人」の字の形にして手すりの上をテクテク歩かせてすっと持ち上げて薄い笑みを浮かべた唇でフッと吹いたのを観た時、ぞっとしました。誰かが死ぬたびに、消えゆく命のかげろうのゆらぎに陶酔するかのように〈死〉がまたしても薄い笑みをうかべて身をくねらせて愉悦に浸っている姿は、愛月ひかるさんの白皙の美貌と高貴さを漂わせる雰囲気と優雅な身のこなしで大変美しいです。しかし、どうみても尋常ではない存在でした。

【僕は怖い】
ロミオだけは〈死〉の気配を濃厚に感じ取っています。僕は怖い、死ぬのが怖い、と言いながらも、ロミオは〈死〉を、〈死〉はロミオを、お互いがお互いに魅了されているようでした。
ロミオは「選ばれし者の恍惚と不安」の渦中を生きているのではないでしょうか。ロミオは〈死〉に見初められ選ばれているし、〈死〉はロミオに最終的に選ばれるのを今か今かと待ちわびているようです。ロミオの心の中には〈死〉が深く入り込んでいるのです。ふたりで踊る場面はそれを強く感じました。ロミオは自分が〈死〉に愛されていることを薄々知っている気がします。

なぜ『エリザベート』のトートみたいな存在がいるんだろう!?宝塚のロミジュリは死が裏テーマなんですか?と怯え始めるのでした。

からみつく〈死〉の視線は、目は口ほどにものをいうとばかりにすさまじい存在感で舞台に君臨します。〈死〉が気になってしかたがない。いないと物足りないと感じた瞬間、わたし自身も〈死〉に魅了されていることに気付きました。ざらざらと逆撫でされる感覚。陶酔してなるものかと意地になります。そっちには行きたくないし行ってはいけない。希死念慮の沼はどんなひとでもタイミング次第でうっかり近寄ってしまいかねない底なし沼なので、1ミリたりとも決して自分から近寄ってはいけないのだ!

そう感じたことを、おそらくロミオも感じているのではないかと思いました。魅了されつつもそちらには行きたくない、行きたくないのに抗うことがとても難しい。だから「僕は怖い」とひとりおびえてロミオは歌うのです。だれひとりその恐怖を分かち合えるひとはいません。なんという生々しく恐ろしい話なんだと愕然としてきます。

【仮面舞踏会の出会い】
希沙薫さんのやさしい〈愛〉はたおやかで美しいです。それでいてなぜか不安にさせるのです。愛が結びつけるからふたりの死も加速するのを予感してしまうからです。
ロミオとジュリエット2人の出会いの演出は、〈愛〉と〈死〉の強い存在感によって、幸福感よりは緊張感を強く感じさせます。このふたりの出会いによって血の雨が降ることを予想させるし、この出会いによってふたりがこの上もない幸福に満たされることも予想させるのです。悲しみと喜びに引き裂かれてつらいわ。

【バルコニーの場面】
バルコニーの場面は、愛おしさがあふれています。なんてピュアでかわいい。
ジュリエットが自分を呼ぶ乳母に対して適当な返事をします。それを聞いたお客さんが笑っていたのは、上の空な感じが「恋愛あるある」としてリアルに感じられたからでしょう。等身大の恋する女性を舞空瞳さんがみずみずしく生きてくれているのがとても魅力的でいとおしいです。乳母の有沙瞳さんが素晴らしい。

ロミオは、溌剌としたジュリエットにリードされつつ求められることに喜びを感じているように見えました。この繊細さは礼真琴さんならではの魅力だと思います。決して自分から強引に行くひとではないのです。誠実で、優しくて、聡明で、ひとの話をよく聞ける、まじめで一所懸命に生きようとするひと。どうやって自分の好きな気持ちを伝えたらいいんだろうと真剣に考えて言葉を選んで発している好青年。愛を「月」にたとえて伝えたのにジュリエットに即座に却下されてしまったのに、それでも決して怒らないし気分も損ねない、なんていい子なんだろう。
このふたりを観ていると幸せな気持ちになります。礼真琴さんと舞空瞳さんの並び立つ空間はピュアで優しく甘くきらきらと輝いて、幸せになれそうな気配がするのです。おふたりの醸し出す雰囲気がとても似ているというのもあるのかもしれません。幸せになって!と心から思わないひとがいるでしょうか。
ロミオとジュリエットの結びつきに、互いに引き寄せ合う魂の共鳴のような絶対的な繋がりを感じました。

2. 乳母・マーキューシオ・ティボルト・神父様

乳母
有沙瞳さんの乳母がこのうえもなく素敵です。敵陣に乗り込んでロミオを探すときのたくましさ、平和の使者としての喜びと誇り、何をいわれようとも笑い飛ばす豪胆さ、なんてかっこいいの。『ドン・ジュアン』のエルヴィラ役でも酒場で肩を見せて踊る強さと弱さがせめぎあうさまが素晴らしいと思いましたが、今回はさらに包容力あふれる存在感で舞台を支えていました。「乳母」としか書かれていない彼女にも名前があるはずです。彼女の名前を知りたいし、彼女が愛したひととの恋の物語がぜひ観たいです。

マーキューシオとティボルト
なのに。なぜロミオのまわりではばたばたとひとが死んでいくのでしょう。ロミオのせいなのです。ぐったりしてきます。マーキューシオもティボルトも死なずに済むルートがあればいいのにと思ってもどうしようもない。
天華えまさんのマーキューシオが刺された直後に「おまえは不器用すぎる」みたいなことをロミオに笑って言います。「おまえが悪いんじゃない」とも。やるせなくてたまらないです。そんなふうに言われたら一生背負うしかなくなる。この場面のあたりから頭がくらくらしてきます。

瀬央ゆりあさんのティボルトはやり場のない怒りをもてあまして自分のこぶしを壁にうちつけて血まみれになってもやめずにいそうな苦しみを抱えているひとです。大変にいきづらそうで、身につまされます。ロミオにとっては厄介な存在となるとしりつつも、観ているわたしの心の琴線に触れてきて、ティボルトの幸せも祈りたくなります。よく考えると、ティボルトに感情移入したのは初めてのことかもしれません。いつも敵役として対立軸で認識していました。ところが今回はティボルトは決して敵役ではなく、悩める若者でした。瀬央ゆりあさんのティボルト解釈が的確で、繊細なお芝居にエネルギッシュさを加味した人物造型のたまものだと思います。

ティボルトを殺してしまうロミオ。ああ。その衝動も、憎しみをこめて殺してやろうと思ったのではなく、友だちを刺したナイフを手にとってティボルトにやりかえしたらピンポイントに刺さりどころに命中してしまった、という事故みたいな感じなのがいいんですよね。だからこそ、悲劇的なのです。

③ロレンス神父
そこから悲劇が始まるかと思いきや、英真なおきさんのロレンス神父様との場面が希望に満ちていてすばらしかったです。有沙瞳さんの乳母もかけつけて、ロレンス神父様とふたりでロミオに「生きろ」と歌ってくれます。この歌が大好きです。罪は罪だけれども、罪を憎んでひとを憎まず。罪を負ったまま生きていけ、罪まるごと自分の存在をうけいれて生きろと励ましてくれる。親よりも自分のことを深く愛してくれている他者の存在にロミオはどれだけ救われることでしょう。この場面は赦しと救いの場面でもあります。

ひとりひとりが生きている素晴らしい舞台でした。ひとりひとりが生きているというのは、愛の力も、憎しみの力も、かなしみの力も、熱量も、倍々になって放射してくる感じがすることなのです。ひとりひとりの存在感が身体以上に舞台からあふれだしていました。

3. ふたりの死

【死の場面】
どうすることもできないまま2人は死を迎えるのです。
ロレンス神父が遅れた理由など、原作にいろいろあったエピソードを宝塚はばっさり省略するんだとびっくりしました。
つらかった。結末を前提に坂道を転げ落ちるように死なせていくのがえぐられる。

ジュリエットを寝かせた寝台にロミオがあがってからの一連の行動は、早くジュリエットが目覚めて欲しい、神父様に来てほしい、と結末を知っているにもかかわらず気持ちがあせってしまいました。目の前で起きている現象に没頭して見てしまいます。それだけ入り込める、というよりは、入り込ませる舞台なんだと思います。つまり礼真琴さんと舞空瞳さん=ロミオとジュリエットが本当に死んでいくように見えたからに他なりません。
お芝居だから本当は死なないと分かってても、いままさにロミオの中で精神が絶望の中で死を迎えていくのがわかるのです。どうしてこんなにも真に迫って見せるのでしょう。つらくて見ていられないよ。
舞空瞳さんのジュリエットがロミオのことが大好きなのが可愛くて、幸せになってくれる気が最後の最期までしました。最期の場面で、愛と悲しみと怒りと苦しみすべてをひとりで引き受けた舞空瞳さんが、手に捧げ持ったナイフを見つめる美しい瞳と壊れそうな笑顔に心が破れそうでした。

【悔いとゆるしの歌】
ふたりが亡くなったあとに、ひとびとが一堂に会して嘆き悲しみます。痛みと悔いを乗せたひとりひとりの声がひとつにあわさり、互いにゆるしあいみとめあうハーモニーはとても美しかったです。

〈死〉がその歌を聴いてなにかを身体で表現しています。〈死〉にとって望ましい展開ではないのでしょうか。〈死〉は死によって死の連鎖が起きることを想定していたのに、そうではなく、ふたりの死が生に転換したことに想定外だと感じているように思いました。なぜの感覚が強く舞台の上に現れていました。〈死〉もまた新たな世界の扉を開いたように見えました。

【フィナーレ】
ロミオとジュリエットの魂は目覚めて、互いを見つけて、手をとりあい、ふたりの愛の世界で互いの愛を抱きしめあいながら踊ります。すると、〈愛〉と〈死〉もかたわらで舞うのです。

ロミオとジュリエットが互いをもう決して離さないというように強く抱きしめあったとき、今まで同じ場所に立つことのなかった〈愛〉と〈死〉が駆け上がって互いの身体を寄せ合って静止して一体となるのです。
まるで〈愛〉と〈死〉がひとつに結ばれるために全ての過程があったようです。〈死〉が舞台を掌握しながら〈愛〉もまた導いていた気がします。〈愛〉は〈死〉であり、〈死〉は〈愛〉なのかもしれないのです。ひええええ。深すぎる。

4. 贖罪の死、永遠の愛

『ロミオとジュリエット』とは、ロレンス神父の"懺悔の物語"なのかもしれません。ロミオとジュリエットが出逢い、愛し合い、死にました。その死を「私達全ての罪を背負った贖罪の死」とロレンス神父が解釈して語っている物語なのです。

①人類の罪が生んだ「死」

キリスト教では「死」を人間の罪の結果としてとらえています。
アダムが犯した罪の結果、人類には死が与えられました。死とは、罪に対する罰。人類は生まれながら「原罪」を背負う罪人なのです。罪とはなにか?自らの罪を知らない愚かさこそが罪なのです。え

こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞こえにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒やされることがないためである。』(マタイによる福音書第13章14)

人類はとんでもなく愚かです。
旧約聖書のイザヤの時代の人々も、ヴェローナの市民も、21世紀の今も、真実を見ず、真実に耳を閉ざし、その非を認めないこと、それが人類の「罪」です。

愛月ひかるさんの〈死〉は、人類の罪から生まれて、人類と共に生きる存在なんだと感じました。ヴェローナの市民が罪を重ねるほど、罰としての〈死〉は加算されていく。加算されて増えていく死の累積を一身に体現しているのが愛月ひかるさんの〈死〉なのです。死の連鎖を見て魂を吸い込んで嬉しそうだったのは、悪魔でもなんでもなく神の意思の体現だからと考えると腑に落ちました。

②キリストの贖罪の死
そんな罪深い人類には救いがある、と考えるのがキリスト教です。神はイエス・キリストをこの世につかわしました。キリストは人類の全ての罪を全て背負って十字架に磔にされて死んだのです。キリストの贖罪の死を信じ、悔い改めると誓うことで、人は救われます。人類は原罪を背負って罰としての死を与えられているけれど、天国で永遠の命を得る救いも与えられているのです。

ラストシーン、
〈愛〉と〈死〉が駆け上がって、ふたりでひとり、というように身体を重ねます。両手をひろげて頭を垂れる姿が、十字架にかかっているようではっとしました。十字架にはりつけにされたキリストを象徴しているように見えたのです。
その姿をみて、ロミオとジュリエットの死は、憎み合う人々の罪を引き受け、身代わりとなって、その罪をあがなって死んだ、キリストの贖罪の死なのだと伝えているように感じました。

ロミオとジュリエットもまた、何世代にわたる憎悪に狂って罪を積み重ねるヴェローナの人々に救いをもたらすために神に選ばれた存在なのかもしれないです。ふたりは出逢わなければふたりとも死なずに済んだかもしれません。出逢ってしまったこと自体が神の意思としか考えられない。2人の死によって、愚かな罪深い人々がようやく悟り、自らの罪を悔い改め、憎しみの連鎖を止めます。人々は新しく生まれ変わったのです。

③神の意志
ロミオから結婚式を頼まれる場面で、ロレンス神父が
「この街に平和をもたらすために2人を引き合わされたのですか? ならば私はそのご意志に従います」と語っていることに気付きました。
神の意思は最も残酷な形で実現したことになります。
ロミオとジュリエットを救おうとして救えなかった神父は神を恨み、呪います。ロレンス神父は神の意図を理解できず、神に裏切られたと感じます。2人がなぜ死んだのかを問い続け、考え続けて、自分の入れ知恵の浅はかさを知るとともに、「ふたりは神に選ばれて、私達の全ての罪を背負うために犠牲になった」と考えが行き着きます。

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネによる福音書12章24節)

ロミオとジュリエットにあてはめて考えてみると、
・ふたりの死は決して無駄ではなかった
・自分のためではなく愛する人を思って生きたことこそヴェローナの街の憎しみと争いを止めて、世界を変えた
・2人の愛が新たな愛を生んだ
・ロミオとジュリエットはこの世の重荷から解放されて天国で愛に包まれて永遠の命を得る
・愛ゆえに死が生まれ、死から愛が生まれる

全ては神の意志だという物語が、『ロミオとジュリエット』なのかもしれないと思いました。深読みしすぎですか。でもあんなに神を連呼する意味、〈死〉と〈愛〉が最後に一つになる意味も、キリスト教的なものを土台にしているし、考えるほどに深く味わえる気がしました。

5. 宝塚歌劇のロミジュリの精神性

宝塚歌劇団は女性による演劇集団です。男役と娘役とでは身長と体格や雰囲気の違いがあるとはいえ、実際の男性と実際の女性が並んだ時のような(個人差がありますので大まかな表現です)喉仏が出てるとかの第二次性徴的な身体的な差は視覚的にはさほどありません。足が2メートル!と思っても、実際はほんの数センチの差で、多くは魅せ方の上手さによるものです。
身体的性差に頼れないからこそ、どのようにして男女間の性を表現するか、高度な演技演出を駆使した創意工夫を観るのがとても好きです。

ロミオとジュリエットふたりが一夜を共にした翌朝の姿はとても美しいです。少し胸元をはだけさせた姿に想像をかきたてられます。でもそれは「一夜を共にしました」を匂わせるだけです。情事後のときめきや俺の女わたしの男という近しい距離感や所有感がこってり表現されることはありません。嬉しそうでもない。これからの待ち受ける不安の方に演出の重点が置かれています。セクシュアルな匂いがおさえられているのです。

宝塚歌劇のロミジュリでは、ふたりは魂と魂で結ばれているのだと強く感じます。とりわけジュリエットは、触れたい、抱きしめたいという身体の欲求と性的な衝動につき動かされる(これも大切なことだけど)よりは、探していた魂の片割れを見つけた、自分が自分らしく自由に幸せに生きられる「新しい世界」と巡り逢えた喜びを感じます。男だから女だからじゃなくて、このひとだから、という想いを強く感じるのです。伝わって!

同性どうしが愛しあうことに何の問題もありません。愛しあおうぜ!と言いつつも、実際の世界では、同性どうしが並んで寄り添っているだけで目を引くことが多々あります。男性の隣には女性が、女性の隣には男性がいるもんだという構図の刷り込みというか固定観念がこびりついているので、男性と女性がくっつくのは当たり前のように刷り込まれている(そのことに無自覚)のです。だから演劇の世界でも男性の俳優がぎゅっと抱きしめるのは女性の俳優です。
わたしも自分では同性も異性も好きになることはあるのに、そういう刷り込みに無意識にとらわれてしまっています。男性俳優と男性俳優がぎゅっとしてると視線が行くのはびっくりしているからです。視覚的な刷り込みと固定観念に囚われていると我ながら思うんです。それは身体の違いを見ているからです。ひとの見た目で男性の身体と女性の身体を識別して、性差で分類しているのです。つまり、愛を身体で捉えがちなのです。

話を宝塚に戻すと、女性どうしなので、身体よりも、身体の奥底に秘められた魂を強く感じやすいのです。
恋に落ちる場面で互いに惹かれ合うとき、互いに相手がこのひとでなければならない理由は、(トップスターか2番手か下級生かが重要かもしれませんが)「魂」に直結していく気がします。身体だけではないのです。身体よりも遥かにそのひとの存在にとって深いもの、魂と魂が求め合い惹かれ合う姿を描くことができると感じるのです。

ロミオとジュリエット、ふたりが並んでいるだけで、心と心がひとつに溶けていく感覚が伝わってくるのです。これは宝塚歌劇団独特の感覚だと思うのです。
ジュリエットを喪失したと思い込んだロミオ、ロミオを喪失したと知ったジュリエットの慟哭は、魂の一部を欠損した、魂の死だということがよりダイレクトに響いてくる感じがします。他の異性の身体で補完してかりそめに慰められるようなものではないのです。だから、観ていて苦しくなりつらくなったのだと思います。

さらに愛月ひかるさんの〈死〉が無機的なのも本当に凄かったです。〈死〉が生身の身体からかけ離れているからこそ、超越的な力を感じられました。

宝塚歌劇団の『ロミオとジュリエット』は女性だけで演じられるからこそ、愛と死のテーマ、魂の問題がより明確に、より痛切に可視化されていると思います。ひとりひとりが命をかけて生きて、愛した。その愛に序列はない。たくさんの愛が舞台の上に花開く。宝塚歌劇星組の『ロミオとジュリエット』は、女性だけで演じられる宝塚歌劇の真骨頂たる「愛」に満ちあふれた舞台でした。ふたりが死に至るまでの過程がつらくて刺さる、真に迫った、愛の痛みを大切に届けてくれる舞台だと思いました。語り継がれ再演を繰り返されているだけの作品だとよく分かりました。

この時代のこの時期に、大変な想いで、途中休演をはさみながらも緊張の糸を決して切らず、ヴェローナの街で生きて愛して生き抜いてくれたことに心から感謝します。Blu-rayでA日程・B日程ともに観られるようになってよかったです。
礼真琴さん、舞空瞳さん、星組さんの皆様、ありがとうございました。

(5月23日 何書いてるのかわかんないわと思って下書きに戻しました)
(12月28日 ロミジュリは深すぎて整理しきれないのでこのまま公開します)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?