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流れる雲は生きている

三浦春馬さんへの渦巻く気持ちをかかえてこれからも生きていくんだと自分で自分に言い聞かせて落ち着かせるために書いていく文章です

対象とは適切な距離をとることが大切です

→なのになぜ君はそんなにこんがらがるのか
空をみるたびに胸がはりさけそうになるのか

彼の人生は彼のものであり君のものではない。そもそも現実的に具体的に彼と君に一切の接点はない。何もかも重ならない完璧に赤の他人。そんなことは百も承知なのに彼の世界と君の世界を混ぜて混乱するのはなぜなのか。

なぜなら?
なぜ彼が"そうした"のかが気になって気に病んで仕方がないからです

→あれ、君は最初そんなことは言っていなかったじゃないか。淡々と書いてたじゃないか。ほれ、このツイートだよ。

いちばん最初に思ったことを書いたツイート。なぜか彼のきれいな思い出をいちばんに思い出してそれを書くことで目に浮かんでました。

→自分で書いたとは思えない。ずいぶんきちんとしたことを書いている。あのニュースを聞いた当日のほうが今よりはるかに冷静でまともだった気がする。こう思ったのは確かで、すらすら書けちゃってたし、こういうふうに考えなくてはいけないと思ってた。この時は"対象と適切な距離"を保っていたのにね。

①演劇のこと

突然思ったんです。理由はわからないからどうすることもできないと思い込んで此岸からおくやみを申し上げていたけれど、もしかしたら彼に向こう岸に渡らせた要因のなかにわたしも含まれているのではないかということに。

「この記事を読んでよかったと思いました。けれどこの記事を読んでますます胸のあたりがずきずき痛くてたまらなくて、涙も出ないのに胸まで涙につかったような気がして苦しくて、それがなぜなのかわからなくて、どうしたらいいんだろうとずっと考えこんでいます」というツイートを書きながら、なぜなのかは薄々感じてました。

同時代人としての申し訳なさを感じたのです。

政府の自粛要請を受けて演劇がすべて止まったときの悲しさ。感染は怖い、自分の命も他人も命は守りたい。けど今日も満員の電車は走っていて飲食店も開いててわたしも働いてる。なのに演劇だけが止められてしまった。文化と芸術がないがしろにされているという焦燥感、身体は生きていても心が生きる場所が失われてしまうという絶望感、宝塚の望海風斗さんや日生劇場の高橋一生さんが中止最後の舞台挨拶で心底から悔しさをにじませていた言葉の数々。
折しもSNSによる悲しい事が起きていて、ひととの適切な距離がつかめなくなっている感覚がありました。政府の自粛要請を受けて舞台が止まるときに彼もまた演劇を守ろうとして発言した言葉、先頭に立って自分の言葉で発言することのこわさ。それを読んで胸が苦しくなる。わたしはなにもしてなかった気がして。沈黙するか既読スルーするその他大勢のひとりとして追い込んだのかもしれないと思ったりして。

→でも、でもそれは彼に時代を背負わせすぎるというものではないか。彼は社会の一員ではあるけれど、社会全てを背負っていたわけではないし、社会の犠牲になったわけではないかもしれないよ。

そうなんだけど、なんかわからなくてもやもやとするのです。

②突然のさよなら

→それはきみ、自分の体験と重ね合わせすぎるというものでしょう。

それはそうなんだと分かっていても、思い出してしまったのです。

わたしの話。祖母の時は頬を叩いて名前を呼んで待って待ってと騒がしくて、分かってたのにうろたえてしまってお別れできませんでした。闘病してた父が息を止めたのは私が身体を清拭してる途中で、息してないと気付き頬を叩いて揺さぶって待ってと騒いでしまい、ありがとう、大好きだよ、ときちんと伝えられませんでした。
余命のカウントダウンを共有しているのに話題にできません。どうしたら父をきれいに死なせられるのだろうと考えてたり、病んだ細胞がすべて入れ替わってくれないかなと夢をみたり。死ぬことと生きること両方をめざす矛盾したマラソンでした。きちんと語り合うことなく急にゴールが来たのでした
もう片方の祖母は冷たい海にひとり身を投げたことがわかり、また別のおじはクリスマスイブにひとり自室でさようならで、こちらは会うことも身体を見ることさえもできませんでした。急に前触れもなく何もいえず別れたままでやるせないのです。

悲嘆感情は多様で、様々な感情が複雑に絡み合います。長い時間をかけて折り合いをつけていくのですが、時に蘇ってくることがあります。再体験によって悲嘆が昇華されることもあれば、こじれてしまうこともあります。とりわけスティグマ(汚名)化されやすい自死は、公に認められにくいため、喪失を抱えるひとはオープンに語ることができず、他者と分かち合うことができません。思い出すこともためらわれて抱え込んで、適切な支援を得られないまま、環境不適合で苦しんでしまうことが多いのだと悲嘆学で学びました。
学んではいるのですが、整理できてはいません。全然整理できてないのです。自死した祖母のことを父はほとんど語ることなくいってしまいました。このかなしみがときどきなにかに触れてぐるぐるします。


③あいまいな喪失

「あいまいな喪失」とは失われたかどうか不明確な喪失です。この世にはいないこともだれかが丁寧に語り聞かせてくれるわけではないので、理解できないし受けとめられないのです。
ひとは、愛する人ときちんとお別れしなければならないのです。
長期間にわたり喪に服す「殯」という儀礼があったように、時間をかけて死と向き合い死をわかちあい死を受け入れることでひとの心は回復に向かいます。死をきちんと確かめられない「あいまいな喪失」の状態は悲嘆を複雑化させてしまいます。

ひとがなくなると身体も精神も失われて目に見えなくなる「死=不在」という長年受け継がれてきた死生観を、映像技術の発展は一変させたと思います。この100年の変化は思想の一新だと思います。そのひとの姿と声をおさめた映像があるかぎり、映像の中でそのひとは永遠に笑っているのです。この世にいなくても映像でそのひとの姿を見られるのは幸せなことです。

でも、技術の進歩にひとの心はそう簡単にはついていかない。映像や写真があることによってかえって不在の静寂をわたしたちは完全に失ったのかもしれないと思うのです。完全に不在にはならない、不在さえも全うできない世界にわたしたちは生きている気がします。つまり彼の映像をみると、彼がいないのか、いるのか、わからないから混乱してくるのです。


④「わからない」に耐えられない

誰も知らない言葉が僕の中で渦巻くってどういうことなんだろう。

この歌を聴いて以来、わからなさのループが止まらないのです。


彼の曲がった角はどんな角なのか全くわからない。彼の前に突然に現れた宇宙船にさらわれていったのかもしれない。そんなことある? 知らない。
誰も知らない。時間が経つにつれてわからなさに耐えられなくなりつつあるのです。なんでなんでと空に尋ねるのです。

まいごのまいごのはるまちゃん
あなたのおうちはどこですか
じむしょにきいてもわからない
お空にきいてもわからない
にゃんにゃんにゃにゃーん

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→なんでだろうね。だけど、わからないことはわからないと受け入れなくてはいけないんだよ。こんな言葉もあります。

胸の秘密、絶対ひみつのまま、狡智の極致、誰にも打ちあけずに、そのまま息を静かにひきとれ。やがて冥途とやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑むのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、巧みにあざむけ、神より上手にあざむけ、あざむけ。

太宰治「二十世紀旗手」

→永遠にあざむけ。太宰先生もそう言ってる。もうわかんないんだよあきらめなさい。仕事の途中だったからたくさんのひとは困っただろうし、えらいひとは怒ってるのかも。えっ、そんな無責任なひとじゃないなんて言える?

きっと彼になにががあったんですよ。もしかしたら思いがけないことだったのかもしれない。でももう誰にもわからないのです。ああ、せめてなにか書き置いてくれていたらよかったのに!なにかつらいことがあったのなら書いてほしい。伝えてほしかった。書いてよ!!!!!なんでなんにもいわずになにもかもだきしめてなにもかもせおってなにもかもひみつにしていってしまったの?そういうところもすべて彼の人柄を感じさせてしまって苦しい。なんで?なんで?なんで?なんで?やりたいことたくさんあったのに!?なんで??????????????? わからない。

あまりにわからないと、彼が選ばなかった世界に取り残されている気がしてくるのです。彼がえらんだ角のほうが正しい道なのではとふらふらと思ってしまうときがないとはいえない。ときどき、ふっとそんな気になるときもあります。あまりにわからなくて。でもその角は違うと何としてもいいたい。でもその根拠もないのです。わからないから。


⑤失ったものと得たものと

わからなさを伝える相手も場所も喪失している。ただただせつない。
いつも彼のことを考えてばかりいるわけではありません。心をしっかりと支えてくれる存在がいてくれてます。けれども、帰るべき故郷とよべるような世界が心の中にはあって、それぞれの故郷の大地にしっかりと根をおろした自分がいるのです。その面積の大きさや根の深さ、時間の長さはそれぞれとしても、どれひとつも欠かせない、わたしを成り立たせている重要な構成要素なのです。彼のことではない世界で生きていて喜びを感じてしあわせに満たされることはあります。
けれど、彼という世界はいまや深い海の底のような空間になっていて、自ら沈んでいったり、時に押し寄せてくることがあります。海の底に沈んでしまって苦しいと、その苦しさと痛みはその世界だけにとどまらず身体と心全体に及ぶのです。この痛みをどうにか取り除きたいのです。

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あるひとに「喪失とはどういうものか」と問われて、答えに窮しました。よく考えていくと、失ったことで何かを得ていることに気付きました。かなしいことは今までもあったけれど、空をみて胸がはりさけそうになることは今までなかったです。青い空や夕焼けの空、空は以前とはまた別の意味と価値を持つようになったのです。

絶えず思い出す映像や急に蘇る記憶と伝えたかった言葉、こうすればよかったやどうすればよかったとめぐる想い、空を見上げて雲もろともに流れていきながら時間を重ねて熟していくのです。わからなさもくやしさも怒りもかなしみも苦しさも痛みもすべて。このぐっちゃぐちゃの感情もどこかにたどりつく日がくるのでしょう。
区切りをつけようとしたのですが、つけようとしてもつけられるものでないと知りました。いやだけど、しんどいけど、すべてここで区切って置いていこうとするのが間違っているんだ。区切られるものではないのだ。空の雲をどこで区切るというのか。雲は流れて見えなくなってもこの地球をぐるぐるとめぐっているのかもしれない。そしたらすこし楽になるのではないか。暦なんて関係ない。いけ、そのままいく。持って行く。流れる雲はまだ生きてるんだよ。
時とともにどこから流れ着いて一周回った感情がわきおこり、急に涙がこぼれてきたり急に優しさにつつまれていたり、いとおしいひとたちは日々新しい景色をわたしにみせてくれるのしょう。

明日もあさっても来年も空を見てはときおり泣くのでしょう

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いつか彼のことが好きだったと、良い俳優だったと、かけがえのない宝物をくれるひとだと、いつか彼の映像化された作品を観て文章を読んでいつかだれかと話せる日が来ますように。その日までかかえて生きていきます。

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