ワセダクロニクル主催 『共犯者たち』上映会&シンポジウム/パネルディスカッションを見て来た。

http://www.wasedachronicle.org/event/c26/

日本の隣国、韓国では2008年ごろから2017年頃までにかけて、政治権力者による情報統制が行われてきた。そのジャーナリズム暗黒時代で報道の自由のために抵抗を続けた記者たちと、権力者におもねり情報統制に力を貸したメディア上層部の“共犯者たち”との闘争を収めたドキュメンタリー映画が、表題にある『共犯者たち』だ。
そう、これは情報統制を進めた政治権力者を糾弾するドキュメンタリーではない。その政治権力者にジャーナリズムの精神を捨て、ただの政府広報に成り下がることを選択した“共犯者”に目を向けた映画だ。
 
私が、この映画に興味を持ったのはほかでもない、今の日本のメディアの状況が理由だ。ニュース番組はもはやバラエティーとなりはて、その内容もインターネットで話題をさらう動物の動画(ネットの二番煎じを垂れ流すなど報道機関の役割とプライドはいったいどこに行ったのか)や恒例行事に楽し気に参加する人々の様子を映し出すものばかりだ。
まるで、日本には大きな事件や問題が、特に政治的・社会的問題が無いかのようにみえる。
しかし、現実は違う。311大震災とそれに伴う原発事故の問題は「解決」というにはあまりにもお粗末で、問題が山積みだ。政治不正や権力の跋扈は目を覆いたくなるほどに日本社会全体に波及している。
しかし、誰も何も言わない。(まるで漫画『アフロ田中』の火事の話のようだが、全く笑えないという点だけは決定的に違う: https://twitter.com/zenbutukawarete/status/1097359711702155265 )
ただ茫然と政治権力者と守銭奴企業家に都合のいいように事態が進められていく様を国民は眺めているだけだ。誰も何も言わず、行動しない。
 
メディアの沈黙はまさに今日本で起きている事態であり、故にこの上映会に行かなければならない気がした。だから、大してお金もないけれども、どうにか都合をつけて会場に入った。
 
映画では報道の自由と知る権利を獲得するために奮闘する、ジャーナリストと韓国国民が鮮明に映像としてとらえられている。
李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・クネ)の前2代に渡る大統領のあまりにも横暴で攻撃的な情報統制は、日本でも考えられないほど強引だったと言える。
簡潔に流れは以下のような形だ。
 
まず、放送局の社長人事権がある委員会を抱え込み、新政権に対する批判的な報道を維持する現行の社長を「新政権の努力を踏みにじる冷徹な人間」と中傷。委員会内での社長に対する不信感を増長させる。(いきなり国民全員をだまそうとするのではなく、力のある少人数の集団をだます/脅迫する/利用するわけだ。実に卑怯でかつ合理的だ)
現社長の解任を決定したら、あらかじめ準備していた政権側の人間を社長に据える。
新社長は政治報道を積極的に制作している部署を次々に解体。大概は報道以外の部署に転属、脅威になりそうな人物は解雇という形だ。
そうして報道の現場から政治問題を遠ざけたら、今度は国民に寄り添う良き大統領のプロモーションが始まる。それは例えば、国民から寄せられた意見や要望(これがサクラでない保証がいったいどこにあるのかは甚だ疑問なわけだが)に政府がどのように対応しているのかを大統領本人が語る番組(自分の成果を他人に熱弁するような人間ほど信用ならないものは無いが)を組み込んだり、あるいは、若者から注目されているイベントにさながら人気アイドルのように華々しく登場して、若者の文化に理解がある許容力のある人物であるかのように見せる(「他人のたしなみに理解があること」と「自分がその注目の対象であるように振舞う」のとは根本的に別問題なうえ、勘違い甚だしい)ニュースを報道する。
こうして、不都合な事実はあえて何も言わず、政権が達成した成果ばかりを大手をふるって賛美する番組構成が連日繰り返されていくのだ。
 
今の日本政権は何から何まで同じ手順を踏んで今に至っているわけで、他人を踏みにじり自分たちの力の絶対性を獲得したがる人種が考えることが古今東西全く同じと言うのは、何とも絶望的でありまた希望でもあろうか。(要は考えていることは全く同じで、その手法も手順も変わらないのであれば、対策を取り根絶するのは“適切な対処”にさえなっていれば比較的簡単である可能性があるということだ)(あくまでも可能性の話だが)
 
一方、日本と韓国の決定的な違いはこの映画が“作りえた”という点で最も顕著だと言える。
どういうことか。
 
つまり、「権力者の横暴に声を上げ、抵抗し、戦い抜く覚悟を決めた人たちの行動と、その人たちを支える多くの国民がいたことが、はっきり鮮明に映像に記録されている」のだ。
 
つまり、過不足なく説明し一本のドキュメンタリー映画(約105分)を作れてしまうほどの記録をきちんと残し続けていたということだ。映画にするために必要な映像は量も質も膨大だ。それが確かにあった。それが日本と韓国の決定的な違いだ。
果たして、日本の報道関係者にそれだけの気骨をもって記録を取り情報発信を続けている人が何人いるだろうか、また、それを声を大にして支援する国民がどれほどいるだろうか。
これだけの記録を獲得するのは、“行動を起こせる人”だけでは到底無理だ。支援する人、仲間がいなければ無理だ。つまり、国民が表立って情報統制に抵抗するジャーナリスト達を応援し、支援しなければ到底なしえない。陰ながら応援では根本的にダメなのだ。(そもそも陰ながら応援とはどういうことだ。隠さなければいけない応援とはなんだ。意味がわからんではないか)
 
記録を取り続けた韓国でさえ、こういった言論統制の歴史を9年も紡ぐこととなった。9年の月日はあまりにも長く、一朝一夕で改善を図れるものではないだろう。しかし、現在の韓国には記録があり、問題点を見つけ出すための資料と情報が十分にある可能性が高い。
世界報道自由度ランキング2019年( https://rsf.org/en/ranking/2019 , この算出方法の是非はあるにせよ一つの指標として参考にする)では韓国は41位(2017年が63位、2018年が43位)。日本が67位でアメリカが48位である。今、韓国は出来事の記録を取り続け、残し、その記録を参照しながら過去の失敗の原因を追究している。それがこの映画の意義でもあり、また成果の一つともいえる。
 
日本はどうだろうか。
果たして未来の日本が今起きている失敗の原因を追究し、改善を試行錯誤するだけの記録資料を今の日本が残していると言えるだろうか。
いやまずそもそも論として、“記録を残す事”が“失敗の原因と発生の仕組みを解明するうえで最も大事”だということをどれ程の日本人が理解しているだろうか。
記録が無かったら成功でも失敗でも原因究明は出来ない。これはどうしようもない現実だ。だから、失敗を避けようとするならあらゆることが記録されてなければいけない。いや、どれだけあらゆることを記録していても失敗を避け続けるのは難しいかもしれない。でも、部分的にでも失敗が起こる原因や要素や仕組みが分かっていたら、少なくともその部分の失敗は防げるし回避できるのだ。そうやって少しずつ良くしていく、失敗(とそれに誘発される事故)を減らしていけるのだ。
 
あくまでも「記録があれば」の話だ。
 
統計も破棄、資料や議事録も破棄か隠蔽、嘘もつけば「記憶にございません」「あなたに答える必要はない」とのたまう。それが現政権でありそれを容認し批判しないのが今の日本のメディアの現状だ。あり得ない。何も改善する気がない。国民の生活のために国民のお金(税金)を使って政治・政策を打つつもりがない。政治家やその周囲にいる権力者たちが、僕たちのお金(税金)で僕たちの血肉で好き勝手している。いいわけあるか。ふざけるな。
 
と怒ることに反論の余地があるだろうか。
 
臭いものに蓋、馬の耳に念仏、正直者は馬鹿を見る。そんな時代はもう終わりでいいだろう。
臭いものは臭くなくなる方法を、馬に念仏が通じないなら訓練を、正直者が損をするのではなく嘘つきと悪人が損をする世界を作ることがそんなに難しいだろうか?
日本は、人間はもっとうまく出来るはずだ。科学技術も発展させてきた。文明も文化も築き、あらゆる生物よりも最も繁栄してきた。それだけの功績を生み出してきたのだ。それは成果を残すために記録を取り、観察し、原因や仕組みを解明し、その知識を使って改善を試み積み上げて来たからだ。それだけのことを成し遂げて来た。その人間が間違いに口を閉ざさない世界を作ることが不可能だと言えるだろうか。
 
僕らはもっとやれるはずだ。まずは記録を取り続けよう。そして、声を出し自分を示そう。
現実問題を現実世界で現実的に解決するために。
放っておかない世界を作るために。

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