懐古的ナショナリズム


 昔はよかった。よく耳にする言葉だ。業界、地域を問わず言われることだ。これは年寄り限らず若年層であっても変わらない。昔の日本は良かった。と続けるのである。
 こんなことを考えているのはまず第一にテスト勉強からの逃避に「坂の上の雲」の動画を見ていたときにあるコメントを見たからだ。そのコメントでは、「今の日本は腐っている昔はこんなにも綺麗だった。」という旨の物だ。恐らくこのコメントを投稿した人物にとっては、自分が経験している日本よりも「昔」の日本が美しく見えたようだ。しかし、本当にそうであるか自分は大変疑問に思った。もちろん自分自身大正ロマンや明治日本が大変に好きだし、この時代に生まれればよかったと思う事がある。だけれど「明治日本」を綺麗であって、「今の日本」が腐っているとは思わない。明治日本は間違いなく貧しかったし、東北地方の困窮が戦後まで続く。日清日露と2度の戦争など必ずしも良い面だけでは、なかったのだ。もちろん今の日本が良くないと思うところもたくさんあるが、かといって明治日本が理想形であるとは思えないのだ。灰燼に帰した戦後から世界に冠たる経済大国になった日本、平和の70年間を過ごしてきた日本これも十分誇らしいものではないだろうか。こんな懐古とナショナリズムの融合を「懐古主義的ナショナリズム」とする。
 まさに老人が最近の若者は…というように若者が最近の日本は…と感じている様である。(コメントは10代であると記述していた)我々が過去を見るときは、マクロな視点から見る。老人が過去を述懐する時、大まかな美化された記憶を辿る。いわゆる思い出補正というやつだ。自分も実はそんなに楽しくなかったはずの高校生生活が、今では懐かしきいい思い出になっていたりする。歴史も同じく偉人であったり、歴史的出来事であったり、国家規模であったりするのだ。さらにその出来事から良かった歴史を抽出して見ると見事、懐古主義的なナショナリズムの完成だ。この懐古主義的ナショナリズムはどんな国でも一定数必ず見受けられる。例えば、ハンガリーやポーランドの東欧での極右の躍進やアメリカのトランプ大統領の「Make America Great Again」のスローガンは正に懐古的ナショナリズムそのものだ。しかし、美化した過去には戻れない。よしんば戻れたとしてもそれは「美しい記憶」ではなく時代遅れの遺物になってしまうだろう。
 美しきあの頃と淋しい今を比較して、過去へ戻ろうとするのではなく。美しき今を未来の人達に「懐古」してもらえるくらいできっとちょうどいいのだ。
美しき単位を取るためにそろそろテスト勉強に戻る。

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