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ディスカッション 真田純子×森田一弥  (司会:河野直)

真田純子氏・森田一弥氏の2名をゲストとして迎えた本レクチャーには、全国各地から約74名の参加者が集まった。参加者にはレクチャーを聞きながら、2者の取組みに「共通すること」を探してもらった。発見した共通項はチャットボックスで投稿してもらい、30余りのキーワードが出揃った。後半は、これらの中から深堀りしてみたい共通項を選定して、ディスカッションを行った。

「原始的な技術」と「農地の技術」の共通点と相違点

河野:皆さん、たくさんの共通点の提起、ありがとうございます。森田さん、真田さん、今皆さんがお二人に共通すると思うことをたくさん挙げていただいております。このなかから一つ、二つ、気になるキーワードを見つけていただいて、ディスカッションを進めていきたいと思います。まずは真田さん、いかがでしょうか。

真田:多くの方が、「原始的な技術」ということを挙げられていますが、この点においては似ているようで似ていないと思います。「原始的な技術」は森田さんが使われた表現ですが、私がテーマにしたものは原始的な技術というよりも、技術としての目的の違いを話していて、一見原始的に見えるかもしれないですが、実はすごく高い技術であるということを伝えたかったのです。そういう意味では、「商品性の不完全さ」というキーワードは面白いと思いました。農地の石積みは、商品として見れば確かに未熟なんだけど、農地の技術としてはとても完成度の高い技術なわけです。
 森田さんは文化財を直すような職人さんに弟子入りされていたので、そういう視点から見て、農家でやっているような技術を「未熟」とか「原始的」と表現されたのだと思います。森田さんから見て、農家の石積みが完成形だと考えたときに、そこにある技術の高さというものはどういうものだと思いますか。

森田:そこに共通するキーワードは「柔軟性」ではないかと思っています。職人の世界でも、石が変わっても積めるとか、土が変わっても対応できるとか、違う条件に対しても柔軟に対応できるのが本当に優れた職人とされます。昔は武者修行で各地を渡り歩くという職人風習がありましたが、一つの地域で一つの技術だけを洗練させてしまうと環境の違いに対応できなくなる。それを、違う場所に行くことで、自分のいったん身に付けた技術を相対化して技術の幅を広げていくのです。それと同様に、農地の石積みのような技術というのは、技術が専門家の職業として高度化して洗練される段階の前に止まっている状態で、あらゆるものに対して対応できる、普遍的な技術だと思います。

河野:森田さんは何か気になるキーワードはありましたか。

森田:先ほどの真田さんのお話でもあった、「無駄な労力を使わない」ということですかね。足りなさが生み出す合理性みたいなことも書かれていましたが、職人が建物を「商品」にしようとすると、どんどん性能や品質を上げていってしまって、際限がなくなるんですよね。案外、現代建築でもそうで、用を足すことに留まらず、行き過ぎた追求をしすぎてしまうところがあり、そうした今の建築の問題を端的に表しているなと思いました。

河野:「オーバースペックに対して意識的である」というキーワードも出ていますね。追求することを美学とするような、厳しい職人の世界に入られていた森田さんが、そのようなことを言われたのが意外でした。

森田:職人をやっていたので、より技巧的な技術を使いたい、というメンタリティは設計をはじめても10年くらいは染みついていました。ただ、原始的な技術の産み出す質感に触れたとき、僕が世界各地の集落で触れた魅力と同じものを感じたのです。タージマハルみたいな研ぎ澄まされた技術ばかりの建築ばかりじゃ、やっぱり人間、疲れちゃいますから。


材料を追求する方向性への疑義

河野:もう一つ、二つくらい、皆さんが出してくださった共通する言葉の中から気になるものがあれば、少しお話を深めてみたいなと思うのですが、どうでしょう。

真田:「土地にある資源を回す」「地域循環」といった言葉も結構皆さん書いていただいていますね。昔は土壁も地域の土を使っていたと思うのですが、どんどん高度化していくと、それも変わってくるのでしょうか。いい土を求めて遠くから持ってきたりするようになっているのですか。

森田:車がなかった時代には人力で材料を運ぶしかないので、近くの山で採ってきて、それをその土に合った配合で使っていたと思います。それがだんだん、淡路島のような良質な粘土の産地から土を持ってきて、日本全国同じような配合で使うようになりつつありますね。

真田:やっぱり仕上げが美しくなるよう、それに適した材料を探すというような方向にいくということなのですね。技術が技術として一人歩きするという感じで面白いですね。お城の石積みもまさしくそんな感じで、地域の石を使って、その石の形や石質に合わせた積み方をする農地の石積みとは違って、立派で見た目のいい石をわざわざ遠方から持ってくるわけです。目的が違うと、だんだん素材を選ぶ方向に行くんですね。
 少し公共事業の話もすると、土木の場合、これまでは強度を担保するために材料や技術を均質化する方向に進んできました。たとえば、コンクリートで擁壁を造る場合、強度を安定させるためにモルタルを規格化し、そこに水や骨材をどう混ぜるかが1930年代に既にマニュアル化されています。農地の技術とはまったく逆の方向を向いた進化といえます。

河野:石積み学校の活動は、ほぼ100%、土地にある資源を使われているのですか。

真田:石がない所で新たに造りたいという場合もあるので、そのときは近くの砕石業者から採石を買うこともあります。運搬料が高いので、なるべく近くの採石場から買いますが、すごく狭い意味での地域の石っていうわけにはいきません。ただし、修復するときにはもともとある石積みを崩して積み直すので、その土地の石ということになります。

技術に携わる人の数を増やすことの重要性

河野:森田さん、最後に一つくらい、何か話を加えてみたい共通項のキーワードなどありますか。

森田:技術の継承の話ですが、それこそお城を造るような高度な仕上げ、高度な技術は、公共の文化財の仕事などを通して守っていくべきものだと思います。一方で、竹で下地を編む、荒壁を塗るといった、本当に民家の一番ベーシックな技術は、そんなに継承するとか言わなくても、誰でもできるのではないかなと僕は思うんですよね。そして、それを仕事として誰かに請け負わせるのではなくて、自分や身近な人で造り、不具合があったらトライ・アンド・エラーで直していくというのが、地元のものを使うということにつながるのかなと。その意味で、これから技術の継承を考えるときには、真田さんの言われていた「仕組み」がすごく大事なのだろうと思いました。

真田:今、石積みの職人って、基本的にお城やお屋敷に関連した仕事しかなくて、そういう技術を持った人しかいない状況なんですね。でも昔は、公共事業でも、たとえば山間部の道路の擁壁を積むとか、河川護岸を積むとかいった仕事があって、もっと一般的なレベルで活躍していた職人がいました。それに加えて、農地で石積みができる人たちがたくさんいたわけです。スポーツでも競技人口が多くないと技術が高まらないという話がありますが、石積みのような技術も同じで、裾野を広げていかないと高度な技術も普通の技術も継承されていかないのかなと考えています。

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 ただし、図では少し便宜的に書きましたが、先程も話したように、農地の技術は固有の尺度で高度化されていて、見た目が整っていることだけが高度●●なわけではありません。また、石積みの本質は、ちゃんと石が噛み合っていることであって、隙間のありなしではありません。そうした、石積みの良さを分かる人が増えることで、本当に技術が守られていくのではないかと思っています。ですので、今日こうしてお話をしましたが、今日の話を聴いた人が必ずしも実際にやる必要はなく、石積みに興味を持って、見てくれる人が増えたら嬉しいなと思っています。

森田:真田さんが言われていた「家族の仕事」と「職人の仕事」という対比もいい表現だなと思いました。技術は職人のものだけじゃなくて、普通の人が日曜大工的に使う技術もあります。その広がりが職人を支え、また家族の仕事としての技術があるからこそ、職人の仕事の良さも分かり、お互いがリスペクトできるっていうこともありますよね。


庶民の技術を受け入れる社会の価値体系とは

河野:時間もだいぶ終わりに近づいてきましたので、お二方に質問などあればお願いします。

権藤:今日はありがとうございました。とても面白かったです。1点だけ補足で、森田先生の「原始的」というのは、「原型的」、つまり「素の形(プロトタイプ)」が取り出せているということで、少し摩擦を起こしていると思いました。
 真田先生に伺いたいのですが、土木史研究の中心は国家的なプロジェクトだと思うのですが、庶民の土木技術を扱う研究はどのくらいされているのでしょうか。

真田:土木史の研究をしている人は非常に少ないです。建築であれば建築史の講座がありますが、土木史の講座はほぼないと言えます。だいたい計画系や景観の先生が兼務していたり、土木史を専門にしている人も採用の際には景観で入ったりしますので、軽視されている分野であることは確かです。なので、庶民の土木技術を扱う研究もごくわずかです。

河野:他には、「こういう技術の問題、技術そのもの、原始的な技術や家族的な技術は、大学や教育機関で教えられるものなのでしょうか。あるいは自分で学ぶべきものなのでしょうか」という質問が来ていますが、いかがでしょうか。

森田:最近は大学でも、たとえば木匠塾など大工の技術を学ぶような活動がありますので、そうしたことはできると思います。ただし、そうした場所で教えることのできる職人さんがなかなかいないんですね。やはり近代化の中で、一般の人を巻き込みながら普請をする文化が廃れてしまい、職人さんもプロ同士で仕事をするのに慣れてしまっているのです。だから、そういう職人さんたちを教育の現場に巻き込んで、教育者としても振る舞えるような人を増やさないといけないだろうと考えています。

真田:私は実際に教えようとしているわけですが、土木は基本的に公共事業なので、あまり個人で土木施設を造るような技術を教えることはありませんでした。ですが、今までの技術を均質化することで津々浦々インフラを行き渡らせようと国土開発してきた時代から、資源の循環や持続可能性、地域性が重要な時代に変わってきています。その中で、原始的な技術や家族的な技術といったまったく価値観の違う技術を学ぶことで、公共事業に反映できることがあるのではないかと考えています。土木学科では、最終的に公共事業を担う人を育てる教育をするのですが、そこに新しい価値観を付加するという役割としてやっています。そういう意味付けができるのも、大学でやることの意義だと思います。

河野:最後の質問です。「社会や人の価値判断次第で、庶民の技術が活躍する場が左右されているように感じました。庶民の技術が活躍するような社会にするには、どのような価値体系の推進が必要だと思いますか」ということですが、いかがですか。

森田:私は設計をする人間であり、デザインをする人間なので、それがどういう性能を満たすかということだけではなく、それが美しいということや、手の跡が残ったものや不均質なものが人間が日常を過ごす空間にあることがとても大切だということを伝えたいと考えています。

河野:真田先生はいかがですか。

真田:一つは、いろいろな人が関われるということだと思います。やっぱり、自分たちの空間を自分たちでつくることの喜びが得られますし、石積みの場合は、自分で積むことでその保守に対しても責任感が生まれるので、それが地域の安全や防災意識にもつながります。あとは、地域性や循環といったものが価値体系の中に入ってくるのかなと思います。


二人にとっての「つくる」とは何か

河野:ありがとうございます。最後の最後に、「お二人にとって、つくるとはどういうことか」を伺って締めたいと思います。

真田:私の場合は、石積みの修復をメインにしているので、つくるという能動的な意識は実はあまりなくて、その土地の自然や歴史の中に自分を埋め込むみたいな感じに思っています。

森田:左官の現場に飛び込んだときもそうだったのですが、つくるということは人間にとって純粋に快楽的な行為だと思っています。土を触っている瞬間なんかは何もかも忘れて、泥遊びをしている子どもみたいに集中してしまう。現場で壁を塗っている職人さんもみんなそうです。ものを作るという行為は、社会的な要求に応えるということもその一面としてありますが、ものをつくる快楽をみんなの生活に取り戻せたらいいなというような気持ちでいます。

河野:本日はありがとうございました。

レクチャーを終えて

真田さんは高校の先輩、森田さんは大学の先輩で、お二方のお話を聞けるワクワク感と、人生の先輩方の司会進行役をさせていただく緊張感のある時間でした。真田さんの高い技術とは何か、という問いから、土木と建築の垣根を越えた技術の本質をめぐる有意義なディスカッションが行われました。
この連続レクチャーでは毎回、最後に「つくるとは、どんなことですか?」という質問をしています。毎回全く異なる回答が帰ってきて面白いのですが、森田さんの「つくるとは、人間にとって純粋に快楽的な行為」という言葉が頭から離れませんでした。左官職人としての厳しい見習いの日々を振り返っても、その頃から「快楽」だったと森田さん言います。職人の仕事も、家族の仕事も、つくることのほとんどは大変なことの連続だと思います。99%が大変で、楽しさは残りの1%くらいかもしれません。なのになぜ快楽なのか。でも、妙に納得感もある。
快楽は「けらく」とも読めて、仏教用語で「煩悩を超越した無我の喜び」という意味があるそうです。確かに、私自身のつくる経験を振り返っても、煩悩、煩悩、煩悩の連続。考えて、やってみて、うまくいかなくて、腹が立って、教えてもらって、やってみて、ほんの少し上手くなって、またうまくいかない、その繰り返しです。それでも最後に自身の手から何かが生まれる瞬間に立ち会えれば、全て清算。この、つくるを巡る一連の経験は、「楽しい」では言葉が足らず、快楽的なものであると言われると、妙に腑に落ちる感じがします。
デジタルやウェブの進化で「つくることが身近になった」と言われる今だからこそ、私たちが心身で感じる「つくる快楽」って大切なことなんじゃないか、と考えていました。(河野直)

話し方も技術の捉え方も対照的なお二人だと終わった後は思いました。高度な技術について、あらゆるものに対応できる技術は高度なのか・洗練されていないからこそ応用が効くのかなど、面白い見方だと思いました。
どちらのお話も、別の仕事の傍らに行ったり、様々な建物に応用が効くのに、適正な技術のレベルがあるという見方は共通していますし、農作業しつつとか、手伝いとして参加するといった、職人と素人の中間的な立場のお話がでてきます。この時、真田先生がおっしゃるように誰でも実用上問題ないものがつくれる技術は高度といえますが、これは例えば石積みの機械が開発されて誰でもスイッチを1つ押せば石を積めるというのとは少し違っていて、石積みには技能的な要素があるから魅力的だし、全国津々浦々に空石積みが必要とされていたら機械化されて技術や技能は消えていたかもしれない。森田先生がおっしゃるように本当に高い技能が必要な左官仕事は当然魅力的である一方、量も限られてしまって、逆に洗練の機会を失ったり、仕事がなさすぎて途絶えるかもしれない。
途上国支援のように社会や組織にとって適正なレベルの技術を考えるのと同時に、ある魅力的な技術があった時に、それにがきちんと必要とされて残っていくような適正な社会や組織を考えることも必要なのかなと思いました。
(権藤智之)

構成:和田隆介(わだ・りゅうすけ)
編集者/1984年静岡県生まれ。2010–2013年新建築社勤務。JA編集部、a+u編集部、住宅特集編集部に在籍。2013年よりフリーランス