ありがとう小林先生

僕の通っていた学校はなぜか時間割がAからCと、3つもあった。

今日はA、明日はC、明後日は不明。たぶんC。こんな風に。

固定された時間割がないので、その時間割や、持ち物や課題を書き留めるノートも配られていた。

見開き2ページで一週間が終わるようになっていて、毎日3行ほどの日記が書き込めるスペースがあり、右下には一週間の総まとめが書き込めるスペースがあった。

日記が書き込めるだけあって、そのノートを他の同級生たちがどのように使っていたのかはわからないのだけれど、私は制服を着て登校することや、部活動に参加することと同じように、日記を書くこともまた中学校生活の一つやるべきことと捉えていた。


小林先生というのは、僕が中学校1年生の時の担任の先生である。

先生は給食配膳台の上に置かれたかごにクラスメイトのノートを集めさせ、週に1、2度集め、その日記についてコメントをくれた。

先生のコメント返しはウイットに富んでいて面白く、7日書けば3~4日分僕が書いた日記に何かコメントを返してくれていた。

例えば、当時、僕や友人たちがめちゃくちゃハマっていたNACK5の「鬼玉」を聴いており、僕は友達だけではなく、先生とも「面白かったネタ」の話をノートでやりとりしていた。


書いた内容のほとんどを忘れてしまったのだけれど、一つだけ覚えがあることがある。

塾へ行く途中、自転車に乗りながらイヤホンで音楽を聴いていたら、何かの拍子にイヤホンが片方耳から取れてしまい、そのまま車輪に巻き込まれちぎれてしまった。

今度イヤホンのお葬式をしたいと思うので、先生も来てください。参列者はバカボン鬼塚さん、玉川美沙さん、きっくん他です。(それぞれ鬼玉のDJ)

振り返ればこんなバカみたいな内容、と自分でも思うのだが、先生はそれにちゃんと反応をしてくれた。

「謹んでお悔やみ申し上げます。参列いたします」



小林先生は学年と一緒に持ち上がることなく、1年間で別の学校へ転任してしまった。

先生が修了式近くになって、「転任の準備をしたいので春休み中に手伝いに来てくれる人いますか」と言ったことがあった。

その日来たのは僕と、友人が2人の全部で3人だった。

文化部で春休み学校に行くことのなかった僕の中では、2年生になる前にまたクラスメイトと会えるな、という気持ちで行ったのだけれど来てみればたった3人で、そのことはちょっと衝撃的だった。


「こうやってさぁ、手伝いに来てくれるのって嬉しいよね」

と作業中、先生は僕らにこぼすように言った。


先生が薦めてくれた綿矢りさの『蹴りたい背中』だとか、理科も毛嫌いせずに勉強しなよ、と渡してくれた『よくわかる相対性理論』だとか、怖くて最初の8ページぐらいで脱落した『蛇とピアス』なんかを僕は段ボールに詰めた。

作業が終わり、異動のための荷物が詰まった教科準備室みたいなところで、先生が買ってきてくれたヤマザキパンのまるごとバナナを食べた。

僕らは礼を言ってその日学校を後にした。


小林先生と会ったのはその後の離任式が最後だった。

離任式の後、先生に会いに行ったが、先生は顧問をしていた部活のメンバーに囲まれていて、それに臆した僕は挨拶をするぐらいで、特に話すこともなく帰ってしまったと思う。

友人が私の気持ちを組んでくれて、先生とやり取りした年賀状の住所とマップルを頼りに先生が住む15kmぐらい先の街まで自転車で行ったこともあったが、

結局マップルを持った中学生では家がどこかはわからず、不作に終わった。


2年生の担任の先生は筆まめな人ではなく、ノートを提出しても赤ペンで〇をくれるぐらいで終わってしまったので、日記を書くことも一学期が終わるころにはやめてしまった。

あれは、小林先生だから返事を書いていてくれたのだな、とその時になってわかったのだった。


その後、僕は大学で文学部に入り、小説を書くことを趣味としたが、その源流は読書の楽しさを教えてくれた学級文庫と、書くことの楽しさを教えてくれたあのノートと先生のコメントだろう。


小林先生は今もどこかの中学校で教鞭をとっているのだろうか。


当時の先生と同じぐらい年齢になった僕は、今でもバカボン鬼塚のラジオを聴いているし、自前の日記をつけている。

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