ツツ #3 - 演技メソッド開発 -

演技・演出メソッド開発のため、ここ数週間取り組んでいるNEO(5因子理論をベースとした、質問表を用いる性格検査)は偏差値がアウトプットされる。どんなに点数が高くても100点にならないゲームだ。各列の偏差値を結べばその人の形ができ、そこからいくつかの精神疾患の傾向を導き出すこともできる。ただ、神経症傾向が高くとも、誠実性が低くとも、それだけでは、本人が苦しんでいるかは判断できない。その人がその時苦しんでいたとしたら、それはその時導かれたモデルと、その人が持つ人間観や、置かれた環境とのひずみに由来するものだからだ。

私はこの検査を、”人間の可変性”に出会い、信じるために使っていると確認した。そしてその可変というのも、人生経験の浅い子役のように、捨てて飛び込むものではなく、経験してきてしまったこの半生を含んで超えるという意味の可変だ。ある役と出会う時私は、自身に内包されたその役と重なる要素を自覚し、育て上げるというプロセスを経る。そうして生まれる新たな人格と「いい関係を結び直す」のだ。主人格(といった幻想)に牙をむくトラウマを、世界を拓くための仲間とする。記憶を喪失することはできず、恥を捨ててはいけない。向き合い切ったところに束の間の平穏が訪れる。時に骨まで削りながら、どこまで可変かを知る。それを体系化することが、暫定の私、ツツとしての命題である。

長いシェアハウス歴を経ていろんな人間のいろんな瞬間を見た。人間に”あれ”があり得るのだということを知った。それを認めてしまうと、自分を否定することになったとしよう。だが認めるのだ。どうにかその仕事を成し遂げなくてはならない。人は多面と言うが、面ですらないと私は思う。同時に存在しており、同時に見えている。蜃気楼のように。

残念ながら人間の寿命は100年足らずと決まっている。塞ぎ込めるリミットもそこから逆算され規定される。ベッドの上の暗闇に、クサビのように介入する何かがあった人は幸福だ。世話焼きの友人の突然の電話、テレビに流れるくだらないバラエティ。ハッピーエンドしか聞く機会のない我々は、その裏側にある、怒涛の不幸で自らを終えてしまうことしかできなかった数々を知ることがない。運とタイミング。来世に期待。

また、この相対的な精神分析は、”生の煌めき”といった絶対的な人間観と対になって初めて使用できるものだと実感した。ブエナビスタソシアルクラブ。偏差値を笑い飛ばす生をこの目で見ること。その気に当てられること。それを経験しない人は、本当の意味でこのテストを理解しない。そしてこれは瞑想のように、ある種の方法論があったとして、本人が実践せねば意味をなさない。その内的到達は、本質的に他者と共有することが不可能だからだ。

まとめると、「絶対的な生を知ること」と、「可変の範囲を知ること」が演技メソッド開発における主要テーマになるのではないか。それが現時点での私の仮説である。

2022/03/12 ツツ

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